村の郵便配達

 酒生は、少しの間、黙り込んだものの、改めて口を開くと、言い募ることも無く、淡々と話し出した。

「大学院を修了したものの、そのまま大学に残ることが出来ず、私たちは中国への留学を考えました。当時は解放が広まり、日本からの留学生も多く受け入れられたのです」

 ただ聞くことしかできない中埜は、余計な口をきかず、静かにビールをちびり、ちびりと飲みながら、酒生の声に耳を傾けた。

「私は、留学することと、一生『彼』と生きていくことを、両親に報告するためにここへ来ました。もう40年近く前のことになるのですね…。まるで、昨日のことのように覚えています。この座敷に、両親と姉がいて、そこに、私と『彼』が迎え入れられました。最初は、ただ、一緒に留学に行く友達として歓迎されました。家庭的に恵まれていなかった『彼』は、私の両親と姉の歓待を喜んでくれました」

 そのことを「彼」と話した時を思い出してか、酒生はフッと上品な口元に笑いを浮かべた。

「けれど、『彼』と一生を共にしたい、と紹介した瞬間、全てがひっくり返った気がしました。父親の怒り、母親の嘆き、動顛する姉…今も目に焼き付いています。今と違い、同性愛はまだまだ異端でタブー視されていたし、ましてやこんな田舎の旧家です。偏見に満ちた差別的な言葉をぶつけられました。聡明な『彼』ならば、そんなこと容易く論破できたでしょうが、『彼』の繊細さが、私の両親を傷つけまいとしたのです。両親ではなく、自分たちが傷付けばいいのだ、と」

 気持ちを落ち着けたかったのか、酒生はぬるくなったビールをひと口飲んで眉を寄せた。けれどそれ以上、何かを言うことも無く、中埜にも何も求めなかった。

「私たちは罵られ、暴力も受けました。そして『もう2度とここへは戻るな』と、勘当されたのです。おそらく、村の人たちは、私が田舎を嫌って出て行ったと思っているでしょう。しかし、そうではないのです。両親が、私たちを切り捨てたのですよ」

 ここで酒生は一度目を閉じ、息を整えるようにしてからおもむろに立ち上がった。

「酒生、さん…?」

 縋るような中埜の声も聞こえないかのように、酒生は笑いながら台所に向かった。
 それを目で追いながら、中埜の気分は沈んでいた。
 酒生教授には、一生を共にしたいと心から想うたった1人の人がいたのだ。それが男性だったというのも驚きだったが、嫌悪感は無かった。むしろ、すでにその人が酒生の傍に居ないという事実に、同情を禁じ得ない。

 酒生が戻ると、その手には白ワインの瓶のようなものと、切子の青いグラスを2個持っていた。

「それは?」

 グラスを受け取りながら中埜が訊ねると、酒生は柔らかな笑みで腰を下ろし、瓶のラベルを中埜に見せた。

「日本酒、ですか?」

 それは、750mlの日本酒の瓶で、中埜も見たことが無いラベルだった。

「飲みやすいんですよ、スッキリとしていて」

 そう言って中埜が並べた切子グラスに、酒生がその日本酒を注いだ。

「『彼』が好んだ酒です」

 ポツリとそう言って、酒生はグラスに手を伸ばした。

「中国での留学生活は充実していました。毎日が新鮮で、それでいて、いつも一緒に居られた…」

 一旦、言葉を切り、改めて気持ちを込めて酒生は言った。

「それだけで、…幸せでした」

 過去の、かつて光り輝いていたであろう日々に思いを馳せ、酒生は遠い目をしていた。

「中国では、まだ同性愛は犯罪で、病気だとも言われていました。私たちは慎重にしながらも、手を繋いだり、ハグをしたり、中国人の友人たちとそうするように、みんなの前で親友として過ごしました」

 当時の中国では、同性の友人と手を繋ぐことは大人になっても普通のことで、問題視されない。それでも、同性愛者だと分かれば、逮捕され罰を受けるか、病院に送られ残忍な治療を施されるかが、当たり前だった。

「私たちは巧くやり過ごしました。でも、中国で体の関係を持つのだけは怖くて…。初めて愛し合ったのは、正月休みに日本に帰った時でした。2人で誰もいない海へ旅に行ったのです。ここに帰ることは出来なかったし、『彼』にもまた帰る場所が無かったので…。あれほど、満ち足りた思いをしたことはありませんでした。気難しく、横暴なところもある『彼』でしたが…、あの夜だけは優しく、細やかな気配りができました」

 そう言って頬を染める酒生が初々しく見えて、中埜は胸が高鳴った。

「けれど、中国に帰ってからの『彼』は変わってしまった。私と過ごすよりも、危険な政治的な集会や、闇賭博などに出入りするようになってしまったのです。何が、『彼』を変えてしまったのか、分かりません。私とのことを…、思い悩んだのかもしれません。そうこうするうちに、留学期間の終わりが見え始め、私は中国での就職活動を始めました。もう日本に帰る気はなかったのです」

 重苦しい空気になり、酒生が黙り込むと、中埜はグラスの中の日本酒を一気に飲み干した。それはスッキリとした辛口ではあったが、フルーティーな甘さも感じられ、飲みやすい味だった。
 日本酒の勢いを借りて、思い切って中埜は訊いてみた。

「その人は…、中国で亡くなられたのですか?」

 その言葉を予測していなかったのか、酒生は中埜の質問にビクリと肩を震わせた。

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