村の郵便配達
考えがまとまらずにいた中埜だったが、ふいに何とも言えない温かで美味しそうな匂いがすることに気付いた。
「お待たせしました」
酒生が湯気の上がる大皿を運んできた。
立ったままの酒生の手から、何も言わずに中埜がそれを受け取り、座卓に置いて、ようやく気が付いた。
「餃子、ですね」
「ええ。水餃子。水餃(シュイジャオ)ですよ」
それは、日本でお馴染みの薄皮の焼餃子ではなく、皮の厚い茹で餃子だった。お鍋のお湯から上げられたばかりのホカホカ、ツヤツヤした大きい餃子が盛り付けられている。
「長く中国に居ましてね。中華料理もいくつか覚えましたが、やはりこれが一番気に入っています」
「酒生さんの手作りですか?」
あまりに思いがけないことに、中埜は間の抜けた顔をして、ポカンと餃子を見つめた。
「わざわざ、作って下さったのですか…」
自分のために手間暇をかけて手料理を用意してくれたという事実が、中埜の心をくすぐった。
「大したことではないのです。昨日のうちに作って、冷凍しておいたのですよ。お口に合えばいいのですが。まだ梅酒も、黄酒も残っているようだし、今度は、お茶を淹れましょうか」
そのまま台所を戻ろうとした酒生に、今度こそ中埜は立ち上がって、手伝いを申し出た。それを酒生も拒むことなく、2人は台所に並んだ。
「日本では烏龍茶が有名ですが、私が住んでいた北京ではジャスミンティーが定番だったんですよ。烏龍茶も、ジャスミンティーも、日本のペットボトルの味しか知らない人を気の毒に思いますね」
言いながら、酒生は手際よく蓋つきのマグカップのようなものを、2つ取り出した。
「独り暮らしなんだから1つでいいものを、気に入ったものだから、選べなくて…」
それは、中国でよく見る、陶器の茶こし付のカップだ。蓋を取り、カップ内の茶漉しに直接茶葉を入れ、その上からお湯を注いで、蓋をして蒸らす。
2つ並べられたカップは、それぞれ違った図柄で趣きがあった。1つは青磁のような薄い緑の地に蓮の花と金魚が描かれている。もう1つは白地に大輪の赤い牡丹の花が描かれている。どちらも、いかにも中国的な図案で、中埜は珍しそうに見ていた。
「あれ?この黒いものは…?」
牡丹の花の茶器には、図案化された黒い蝶のようなものが飛んでいるのに、中埜は気付いた。
「これは蝙蝠、ですよ」
クスリと笑った酒生が、時折見せる無邪気な少年の顔だったことに、中埜は少しホッとした。
「コウモリ?」
不思議そうに中埜は聞き返した。
「中国では『蝙蝠』は縁起がいいのです」
「そうなんですか。どうしても、どっちつかずの生き物とか、吸血コウモリとか、良いイメージはないんですけどね~」
意外そうな中埜の素直な反応に、酒生の目尻が下がる。それが穏やかで温かく、大らかな人柄を表しているように中埜には思えて、さらに好感を持ち、親愛度が上がった。
「蝙蝠という字は、「へんふく」と書くでしょう?」
2つの中国式マグカップを持った酒生は、話を続けながら座敷に戻った。
後に続いていた中埜は、気が付いてカップを受け取り、酒生が座ったのを確認して、その前にカップを2つ置いた。
そのうち、牡丹とコウモリのデザインの方を、酒生は中埜の前に進め、次に脇にあったメモ用紙と筆記具に手を伸ばした。
「『蝙蝠』と、こう書きます」
酒生はとても読みやすい丁寧な楷書で「蝙蝠」とメモに書き、中埜に見せた。ニッコリすると、酒生は次に「遍福」と書いた。
「どちらも日本語にすると『へんふく』と、同じ音です。中国語でも同じなんですよ」
酒生教授の分かりやすい説明に、中埜は自分が生徒になったような気がした。
「『遍福』とは、『幸福が遍く広がる』という意味になって、とても縁起がいい言葉になるのですよ」
そこまで解説して、酒生はハッと気が付いた。
「そろそろ茶漉しを上げないと、お茶が出過ぎて濃くなってしまいます」
自分自身も、慌てて金魚デザインのカップの蓋を取り、その上に茶漉しを乗せた。中埜も、見よう見まねでやってみたのだが、蓋を開けた瞬間、素晴らしく高貴で上品な香りが立ち込めたようで、胸が高鳴った。
「いい匂いですね~」
目をつぶり、大きく息を吸った中埜の心地よさそうな表情に、酒生も満足そうだった。
「さあ、飲んでみて下さい。それと、餃子も熱いうちにね」
2人は少し出すぎて濃くなったジャスミンティーと、少し冷めてしまった水餃子を、苦笑しながら味わった。
その後も、和やかに時間は過ぎた。水餃子と昼の残りでお腹もいっぱいになり、お茶でアルコールも引いたところで、酒生は中埜にお風呂を勧めた。
「年寄りの独り暮らしで、一番危険なのが入浴時だと言われて、姉の強硬な主張で、最新式にリフォームしたのですよ。ぜひ、試してみて下さい」
冗談めかして酒生が言うと、中埜は断る理由も無く、持参した洗面道具や着替えの用意をした。
「パジャマもご持参ですか?」
風呂場の様子を見に行って、戻った酒生の手には、新品であろう、ラッピングされたままの真珠色の布と、清潔そうな白いタオルがあった。
「これは、中国からのお土産にと、友人からもらったシルクのパジャマです。まだ袖を通したことはないので、ぜひ、お使い下さい」
「え!シルクって、絹ですか!」
驚く中埜に、酒生も鷹揚に頷いた。
「お土産に、何度も貰っているので、ストックがあるのです」
そう言って楽しそうに笑う酒生を、眩しそうに見つめ返す中埜だった。
「お待たせしました」
酒生が湯気の上がる大皿を運んできた。
立ったままの酒生の手から、何も言わずに中埜がそれを受け取り、座卓に置いて、ようやく気が付いた。
「餃子、ですね」
「ええ。水餃子。水餃(シュイジャオ)ですよ」
それは、日本でお馴染みの薄皮の焼餃子ではなく、皮の厚い茹で餃子だった。お鍋のお湯から上げられたばかりのホカホカ、ツヤツヤした大きい餃子が盛り付けられている。
「長く中国に居ましてね。中華料理もいくつか覚えましたが、やはりこれが一番気に入っています」
「酒生さんの手作りですか?」
あまりに思いがけないことに、中埜は間の抜けた顔をして、ポカンと餃子を見つめた。
「わざわざ、作って下さったのですか…」
自分のために手間暇をかけて手料理を用意してくれたという事実が、中埜の心をくすぐった。
「大したことではないのです。昨日のうちに作って、冷凍しておいたのですよ。お口に合えばいいのですが。まだ梅酒も、黄酒も残っているようだし、今度は、お茶を淹れましょうか」
そのまま台所を戻ろうとした酒生に、今度こそ中埜は立ち上がって、手伝いを申し出た。それを酒生も拒むことなく、2人は台所に並んだ。
「日本では烏龍茶が有名ですが、私が住んでいた北京ではジャスミンティーが定番だったんですよ。烏龍茶も、ジャスミンティーも、日本のペットボトルの味しか知らない人を気の毒に思いますね」
言いながら、酒生は手際よく蓋つきのマグカップのようなものを、2つ取り出した。
「独り暮らしなんだから1つでいいものを、気に入ったものだから、選べなくて…」
それは、中国でよく見る、陶器の茶こし付のカップだ。蓋を取り、カップ内の茶漉しに直接茶葉を入れ、その上からお湯を注いで、蓋をして蒸らす。
2つ並べられたカップは、それぞれ違った図柄で趣きがあった。1つは青磁のような薄い緑の地に蓮の花と金魚が描かれている。もう1つは白地に大輪の赤い牡丹の花が描かれている。どちらも、いかにも中国的な図案で、中埜は珍しそうに見ていた。
「あれ?この黒いものは…?」
牡丹の花の茶器には、図案化された黒い蝶のようなものが飛んでいるのに、中埜は気付いた。
「これは蝙蝠、ですよ」
クスリと笑った酒生が、時折見せる無邪気な少年の顔だったことに、中埜は少しホッとした。
「コウモリ?」
不思議そうに中埜は聞き返した。
「中国では『蝙蝠』は縁起がいいのです」
「そうなんですか。どうしても、どっちつかずの生き物とか、吸血コウモリとか、良いイメージはないんですけどね~」
意外そうな中埜の素直な反応に、酒生の目尻が下がる。それが穏やかで温かく、大らかな人柄を表しているように中埜には思えて、さらに好感を持ち、親愛度が上がった。
「蝙蝠という字は、「へんふく」と書くでしょう?」
2つの中国式マグカップを持った酒生は、話を続けながら座敷に戻った。
後に続いていた中埜は、気が付いてカップを受け取り、酒生が座ったのを確認して、その前にカップを2つ置いた。
そのうち、牡丹とコウモリのデザインの方を、酒生は中埜の前に進め、次に脇にあったメモ用紙と筆記具に手を伸ばした。
「『蝙蝠』と、こう書きます」
酒生はとても読みやすい丁寧な楷書で「蝙蝠」とメモに書き、中埜に見せた。ニッコリすると、酒生は次に「遍福」と書いた。
「どちらも日本語にすると『へんふく』と、同じ音です。中国語でも同じなんですよ」
酒生教授の分かりやすい説明に、中埜は自分が生徒になったような気がした。
「『遍福』とは、『幸福が遍く広がる』という意味になって、とても縁起がいい言葉になるのですよ」
そこまで解説して、酒生はハッと気が付いた。
「そろそろ茶漉しを上げないと、お茶が出過ぎて濃くなってしまいます」
自分自身も、慌てて金魚デザインのカップの蓋を取り、その上に茶漉しを乗せた。中埜も、見よう見まねでやってみたのだが、蓋を開けた瞬間、素晴らしく高貴で上品な香りが立ち込めたようで、胸が高鳴った。
「いい匂いですね~」
目をつぶり、大きく息を吸った中埜の心地よさそうな表情に、酒生も満足そうだった。
「さあ、飲んでみて下さい。それと、餃子も熱いうちにね」
2人は少し出すぎて濃くなったジャスミンティーと、少し冷めてしまった水餃子を、苦笑しながら味わった。
その後も、和やかに時間は過ぎた。水餃子と昼の残りでお腹もいっぱいになり、お茶でアルコールも引いたところで、酒生は中埜にお風呂を勧めた。
「年寄りの独り暮らしで、一番危険なのが入浴時だと言われて、姉の強硬な主張で、最新式にリフォームしたのですよ。ぜひ、試してみて下さい」
冗談めかして酒生が言うと、中埜は断る理由も無く、持参した洗面道具や着替えの用意をした。
「パジャマもご持参ですか?」
風呂場の様子を見に行って、戻った酒生の手には、新品であろう、ラッピングされたままの真珠色の布と、清潔そうな白いタオルがあった。
「これは、中国からのお土産にと、友人からもらったシルクのパジャマです。まだ袖を通したことはないので、ぜひ、お使い下さい」
「え!シルクって、絹ですか!」
驚く中埜に、酒生も鷹揚に頷いた。
「お土産に、何度も貰っているので、ストックがあるのです」
そう言って楽しそうに笑う酒生を、眩しそうに見つめ返す中埜だった。
