村の郵便配達
夕方になり、食事も、飲酒も充分に堪能した2人は、他愛もない会話で時間を使った。
「本当なら、今頃は満月を楽しんでいたはずなのに、これほどの豪雨になるとはねえ」
改めて酒生が残念そうに言うと、励ますように中埜が言った。
「お月見は残念でしたけど、今日は本当に楽しいです。揚げたての唐揚げも食べてもらったし、梅酒や黄酒も美味しかったし、何より酒生さんの中国の写真やお話はとても楽しくて、ためになりました」
それを聞いた酒生も嬉しそうに微笑む。
「そう言っていただけると、わざわざ来てもらった意味がありますね」
2人は穏やかに笑みを交わした。
「こんな愉快な気分になったのは久しぶりです」
酒生は、そう言ってさらにひと口、黄酒を含んだ。
「私も、です」
物静かな2人は、それ以上何も言わずに、ただ笑っていた。それでも。気まずい空気にはならず、大きな雨音に耳を傾けながら、穏やかに過ごしていた。
「かつて、こんな風に何も言わなくても、それで十分だと思える時間がありました…」
随分とアルコールが回ったのか、酒生は目を伏せながら、訥々と話しだした。
「言葉を必要とせずに、互いが分かり合える、そんな気がしたものです」
ふと視線を上げた酒生に、中埜はハッとした。眼鏡の奥の酒生の目は、赤く、潤んで見えた。その瞬間、酒生が脳裏に浮かべているのが、もうこの世にはいないという友人だ、と、中埜は直感した
「一緒に飲んで、食べて、喋って、笑って…。それだけで満たされる。そんな、関係でした」
薄い笑みを浮かべた酒生に、その眼差しに封じた過去が重すぎるような気がして、中埜は何もかける言葉が無かった。
「まさに、傍若無人とはよく言ったものです。若い頃の私は、高慢で、自分勝手で…。本当に自分のことしか考えられなかった」
「…酒生さん…」
眼鏡を外し、脇に置き、肘を座卓についた酒生は顔を伏せ、肩を震わせていた。
しばらくの間、2人は言葉を交わさず、庭で荒れ狂う暴風雨の音だけが、静かな座敷に聞こえていた。
顔を上げることもせず、傷付いた過去に押しつぶされそうになっている酒生をなんとか励ましたくて、深く考えることなく、中埜は立ち上がり、ゆっくりと座卓を回り込み、酒生の隣に座った。
「……。あの…」
なんとか中埜が口を開こうとした、その時だった。
「あっ!」「…っ!」
何の前触れも無く、室内が暗闇に包まれた。
反射的に中埜は、目の前で震えていた酒生が心配で、手を伸ばし、彼を抱きすくめていた。
「大丈夫です。俺が、ここにいますから!あなたの傍には、俺がいます!」
互いの姿が見えない中で、勢いで中埜は振り絞るような声で腕の中の酒生に囁いていた。
「…中埜、さん…」
一瞬、驚いた酒生だったが、戸惑いながらも、久しぶりの人肌の温かさに、中埜の腕を振り払うこともせずに、じっと身を任せていた。
「……。…強い風で、…電線が切れたのかもしれませんね」
ようやく、暗闇での沈黙に耐えられなかったのか、酒生は当たり障りのない言葉で、体を起こした。
自分の腕の中から、大事なものが失われるような気がして、中埜はどうしたらいいか分からなくなる。逡巡した次の瞬間には、部屋の中が明るくなった。
肩を抱かれた酒生と、さらに引き寄せようとした中埜の視線が絡んだ。
「……」「……」
何か言おうとして、2人とも言葉が見つからない。
互いの顔が見えると、たちどころに恥ずかしさと居心地の悪さが、2人の感情の前面に押し出されてくる。
「ええっと…」
手のやり場に困った中埜はそっと離れ、ぎこちない動きで元居た自分の位置に戻った。
その間、酒生は後ろにあったティッシュボックスに手を伸ばし、目元と鼻をペーパーで押さえた。
「もう、…」
「?」
少しかすれた声で、無理な笑顔で口を開いたのは酒生だった。
「もう、歳なのかもしれませんね。昔のことを思い出しては、涙もろくなっていけない…」
照れたようにそう言って、誤魔化すように立ち上がった。
「もう6時ですね。あっと言う間だった。ずっと飲み食いしていたので、お腹は空いてないでしょうが、私は私で、用意しておいたものがあるんですよ」
何事も無かったようにふるまう酒生が、むしろ中埜には痛々しい。
「私が…」
何か手伝おうと立ち上がった中埜に、慌てて酒生が手で制した。
「いいから、ここは任せて下さい」
ニコニコしている酒生だが、その目はまだ赤かった。
それでも後を追おうとした中埜だったが、ふと気付いた。
(1人に…なりたいのかもしれない…)
何も言わない中埜に安心したのか、そのまま酒生は台所へ姿を消した。
取り残された中埜も、為す術が無く、ただ座って座卓を見つめていた。
中埜は何も言わない。だが頭の中は目まぐるしく働いている。
何が悪かったんだろうか。そもそも、月を見に来たのに、そこから躓いている。だが、酒生教授は自分が作った唐揚げを喜んでくれた。梅酒も、黄酒も気持ちよく杯を開けた。それから…。
自分が何かミスをしたとは、中埜も思わない。だが、何かがもどかしく、胸の内が重苦しいのだった。
「本当なら、今頃は満月を楽しんでいたはずなのに、これほどの豪雨になるとはねえ」
改めて酒生が残念そうに言うと、励ますように中埜が言った。
「お月見は残念でしたけど、今日は本当に楽しいです。揚げたての唐揚げも食べてもらったし、梅酒や黄酒も美味しかったし、何より酒生さんの中国の写真やお話はとても楽しくて、ためになりました」
それを聞いた酒生も嬉しそうに微笑む。
「そう言っていただけると、わざわざ来てもらった意味がありますね」
2人は穏やかに笑みを交わした。
「こんな愉快な気分になったのは久しぶりです」
酒生は、そう言ってさらにひと口、黄酒を含んだ。
「私も、です」
物静かな2人は、それ以上何も言わずに、ただ笑っていた。それでも。気まずい空気にはならず、大きな雨音に耳を傾けながら、穏やかに過ごしていた。
「かつて、こんな風に何も言わなくても、それで十分だと思える時間がありました…」
随分とアルコールが回ったのか、酒生は目を伏せながら、訥々と話しだした。
「言葉を必要とせずに、互いが分かり合える、そんな気がしたものです」
ふと視線を上げた酒生に、中埜はハッとした。眼鏡の奥の酒生の目は、赤く、潤んで見えた。その瞬間、酒生が脳裏に浮かべているのが、もうこの世にはいないという友人だ、と、中埜は直感した
「一緒に飲んで、食べて、喋って、笑って…。それだけで満たされる。そんな、関係でした」
薄い笑みを浮かべた酒生に、その眼差しに封じた過去が重すぎるような気がして、中埜は何もかける言葉が無かった。
「まさに、傍若無人とはよく言ったものです。若い頃の私は、高慢で、自分勝手で…。本当に自分のことしか考えられなかった」
「…酒生さん…」
眼鏡を外し、脇に置き、肘を座卓についた酒生は顔を伏せ、肩を震わせていた。
しばらくの間、2人は言葉を交わさず、庭で荒れ狂う暴風雨の音だけが、静かな座敷に聞こえていた。
顔を上げることもせず、傷付いた過去に押しつぶされそうになっている酒生をなんとか励ましたくて、深く考えることなく、中埜は立ち上がり、ゆっくりと座卓を回り込み、酒生の隣に座った。
「……。あの…」
なんとか中埜が口を開こうとした、その時だった。
「あっ!」「…っ!」
何の前触れも無く、室内が暗闇に包まれた。
反射的に中埜は、目の前で震えていた酒生が心配で、手を伸ばし、彼を抱きすくめていた。
「大丈夫です。俺が、ここにいますから!あなたの傍には、俺がいます!」
互いの姿が見えない中で、勢いで中埜は振り絞るような声で腕の中の酒生に囁いていた。
「…中埜、さん…」
一瞬、驚いた酒生だったが、戸惑いながらも、久しぶりの人肌の温かさに、中埜の腕を振り払うこともせずに、じっと身を任せていた。
「……。…強い風で、…電線が切れたのかもしれませんね」
ようやく、暗闇での沈黙に耐えられなかったのか、酒生は当たり障りのない言葉で、体を起こした。
自分の腕の中から、大事なものが失われるような気がして、中埜はどうしたらいいか分からなくなる。逡巡した次の瞬間には、部屋の中が明るくなった。
肩を抱かれた酒生と、さらに引き寄せようとした中埜の視線が絡んだ。
「……」「……」
何か言おうとして、2人とも言葉が見つからない。
互いの顔が見えると、たちどころに恥ずかしさと居心地の悪さが、2人の感情の前面に押し出されてくる。
「ええっと…」
手のやり場に困った中埜はそっと離れ、ぎこちない動きで元居た自分の位置に戻った。
その間、酒生は後ろにあったティッシュボックスに手を伸ばし、目元と鼻をペーパーで押さえた。
「もう、…」
「?」
少しかすれた声で、無理な笑顔で口を開いたのは酒生だった。
「もう、歳なのかもしれませんね。昔のことを思い出しては、涙もろくなっていけない…」
照れたようにそう言って、誤魔化すように立ち上がった。
「もう6時ですね。あっと言う間だった。ずっと飲み食いしていたので、お腹は空いてないでしょうが、私は私で、用意しておいたものがあるんですよ」
何事も無かったようにふるまう酒生が、むしろ中埜には痛々しい。
「私が…」
何か手伝おうと立ち上がった中埜に、慌てて酒生が手で制した。
「いいから、ここは任せて下さい」
ニコニコしている酒生だが、その目はまだ赤かった。
それでも後を追おうとした中埜だったが、ふと気付いた。
(1人に…なりたいのかもしれない…)
何も言わない中埜に安心したのか、そのまま酒生は台所へ姿を消した。
取り残された中埜も、為す術が無く、ただ座って座卓を見つめていた。
中埜は何も言わない。だが頭の中は目まぐるしく働いている。
何が悪かったんだろうか。そもそも、月を見に来たのに、そこから躓いている。だが、酒生教授は自分が作った唐揚げを喜んでくれた。梅酒も、黄酒も気持ちよく杯を開けた。それから…。
自分が何かミスをしたとは、中埜も思わない。だが、何かがもどかしく、胸の内が重苦しいのだった。
