人見知りのサナの話
一歩進んでは、十歩下がってしまうような、もどかしくも切ない日々。
あの台風の夜や、星空の下での出来事を経て、サナの心にはほんの少しだけ「変わりたい」という小さな、本当に小さな芽が息吹いていた。
今回は人ではなく、一番小さくて、いつも自分を気遣ってくれるイワンコを触ってみる『練習』。
しかし、その健気な挑戦は、予期せぬ形でサナの心の傷を刺激することになってしまう。
触れた温もり、弾けた視線
「……イ、イワンコ……」
リビングの隅、いつものように「私はここにいませんよ」とばかりに、椅子の影にすっぽり隠れていたイワンコ。その小さな背中に向けて、サナは床に膝をつきながら、震える声をかけた。
イワンコの耳がピクリと跳ねる。
けれど、大好きなサナを驚かせないよう、イワンコは絶対に振り返らなかった。ただ、じっと前を見つめたまま、サナが近づいてくるのを待つ。
(……大丈夫、怖くない。イワンコは、優しいから)
サナは自分の胸の動悸をなだめるように、ゆっくりと手を伸ばした。
カントーにいた頃には、自分から生き物に触れようとするなんて考えられなかったことだ。
少しずつ、距離が縮まる。そして――サナの指先が、イワンコの柔らかい茶色の毛並みに、そっと触れた。
「あ……」
あたたかい。
トクトクと小さな命の鼓動が、指先を通じて伝わってくる。
イワンコはサナの練習を台無しにしないよう、体をこわばらせて「目を合わせない」というルールを必死に守っていた。サナの指先が背中から首筋へと、おずおずと撫でていく。
それは、サナにとっても、イワンコにとっても、奇跡のような時間だった。
サナに撫でてもらえた。その純粋な、底抜けた喜びが、まだ幼いイワンコの自制心を上回ってしまったのは、本当に一瞬の、不運な弾みだった。
「わんっ!」
嬉しさを抑えきれず、イワンコは弾かれたように振り返ってしまった。
そして、キラキラと輝く純粋な瞳で、まっすぐにサナの顔を見上げてしまったのだ。
「――っ!?」
その瞬間、世界から音が消えた。
イワンコには、敵意も、サナを品定めするような意図も、これっぽっちも無かった。ただ「嬉しい!」という好意だけだった。
なのに、サナの脳裏には、カントーで自分を嘲笑ってきた人たちの目、自分を持て余した両親の冷ややかな目、そしてあの海岸線で見えた観光客の視線が、津波のようにフラッシュバックした。
見られた。
真っ直ぐに、私の奥の汚いところまで、見透かされている。
「う……あ……っ、嫌、いや……!」
サナの顔から一瞬で血の気が引き、絶望と恐怖がその表情を支配する。
部屋に逃げ帰ろうと足に力を入れようとしたけれど、あまりの恐怖に腰が抜けてしまい、立ち上がることさえできない。
「ひゅ、……っ、あ、……ぅ」
サナはその場に崩れ落ち、頭を抱えて、泥の中に沈むように小さくうずくまってしまった。
過呼吸の苦しさと、また失敗してしまったという絶望が、サナの小さな身体を激しく震わせる。
「わ、わん……?」
自分の行動がサナを深く傷つけてしまったのだと察し、イワンコは耳をペタンと寝かせ、今までにないほど激しく狼狽した。クンクンと悲しげに鳴きながら、どうしていいか分からず、うずくまるサナの周りをオロオロと回る。
リビングの奥で、その様子をハラハラしながら見守っていたガオガエンが、ただごとではないサナの様子に、すぐにククイ博士を呼びに走った。
ガタガタと激しく震え、過呼吸に喘ぐサナ。
せっかく勇気を出して触れてくれたのに、それを壊してしまったと涙目を浮かべるイワンコ。
静かな研究所のリビングに、サナの苦しげな呼吸音と、生き物たちの悲痛な気配だけが満ちていく。
「サナ……! サナ、大丈夫かい!」
ガオガエンの報せを受け、廊下を走ってきたククイ博士がリビングに飛び込んできた。
床にうずくまり、過呼吸で肩を激しく揺らすサナの姿を見て、博士の顔が険しくこわばる。
「わ、わぅん……っ……」
サナの側で、イワンコが今にも泣き出しそうな声を上げて立ち尽くしていた。自分がサナの目を見てしまったから、こんなことになってしまった。そう悔いるように小さな身体を丸めている。
「……イワンコ、大丈夫、お前のせいじゃないさ」
ククイは一瞬だけイワンコの頭を撫でて安心させると、すぐにサナの前に膝をついた。
いつものように無理に触れようとはせず、まずは彼女の視界に自分の大きな手だけを映すように、そっと床に手を置く。
「サナ、俺の声が聞こえるかい。ククイだ。大丈夫、ここは安全な場所だよ。ゆっくり、息を吐いて……吸わなくていい、まずは細く長く、吐き出すんだ」
「ひゅ、……ぅ、……つ、……あ……っ」
サナは耳を塞ぎ、頭を床に擦りつけるようにして、ただ恐怖の波が去るのを耐えていた。
真っ直ぐに向けられた、イワンコのあの純粋な瞳。悪意がないからこそ、それに応えられない自分の醜さが浮き彫りになるようで、息の仕方が本当に分からなくなってしまったのだ。
「サナ、目を開けなくていい。話さなくてもいい。ただ、俺の声を聴いてくれ」
ククイの声は、アローラの地響きのように低く、けれどどこまでも温かくサナの耳の奥へと染み込んでいく。
「イワンコはね、サナに撫でてもらえて、心の底から嬉しかったんだ。嬉しすぎて、つい『ありがとう』を言いたくて、君を見ちゃったんだよ。君を責める目は、ここには一つもないんだぜ」
「……っ、……ぅ……う、あ……」
パニックの霧の向こうから、博士の優しい言葉が少しずつサナの頭に届き始める。
責められていない。笑われてもいない。
そう頭で理解しようとするけれど、一度跳ね上がった心臓はなかなか言うことを聞いてくれない。ガタガタと震えが止まらないサナの背中に、ククイは驚かせないよう、細心の注意を払いながら、そっと大きな掌を滑らせた。
「……っ!」
サナの身体が一瞬ビクッと強張る。けれど、その掌から伝わってくる圧倒的な「体温」と、ゆっくりと上下する博士の優しい呼吸の厳かさに、サナの身体の強張りが、少しずつ、本当に少しずつ解けていく。
「……そうだ、上手だ。ゆっくり、ゆっくりな」
ククイはサナの背中を、まるで小さな赤ん坊をあやすように、優しく、大きな円を描くようにさすり続けた。
どれだけの時間が経っただろう。
激しかったサナの呼吸が、やがて小さな「ひっく、ひっく」というしゃくり上げに変わり、床を濡らす涙だけが静かに溢れ続けた。腰が抜けて立ち上がれないサナを、ククイは壊れ物を扱うようにそっと抱き上げ、ソファへと横たわらせる。
サナは疲れ果てた目で、じっと自分の指先を見つめていた。
イワンコに触れた、あのあたたかい感触。
ソファの足元では、イワンコがまだ心配そうに、けれど今度は絶対に目を合わせないように、サナのサンダルにそっと自分の額を預けて寄り添っていた。その健気な姿に、サナの目からまた一粒、涙がこぼれ落ちる。
「……ごめ、なさ……っ、……ごめんなさい……」
また失敗した。また普通にできなかった。
そんなサナの髪を、ククイは愛おしそうにくしゃりと撫でた。
「謝ることなんて何もないさ。サナ、君は今日、自分からイワンコに触ろうとしたんだろ? 凄いことじゃないか。イワンコも、俺も、今のサナの『変わりたい』って気持ちが、何よりも嬉しいんだ」
博士はそう言って、優しく微笑んだ。
「一歩進んで、転んじゃったら、またここから始めればいい。アローラの時間は、君が思っているよりずーっとのんびり流れてるんだからさ。な?」
博士のその言葉に、サナは小さく、本当に小さく頷いた。
まだ、目は合わせられない。外にも出られない。だけど、この温かい研究所の中には、自分がどれだけ転んでも、静かに手を差し伸べ続けてくれる大人と、不器用な仲間たちがいる。
サナは涙を拭い、ソファの端から少しだけ手を伸ばして、足元で丸まるイワンコの頭を、今度は見ないまま、そっと撫でた。イワンコは嬉しそうに、けれど決して振り返らずに、低く喉を鳴らしてその温もりを受け止めていた。
あの台風の夜や、星空の下での出来事を経て、サナの心にはほんの少しだけ「変わりたい」という小さな、本当に小さな芽が息吹いていた。
今回は人ではなく、一番小さくて、いつも自分を気遣ってくれるイワンコを触ってみる『練習』。
しかし、その健気な挑戦は、予期せぬ形でサナの心の傷を刺激することになってしまう。
触れた温もり、弾けた視線
「……イ、イワンコ……」
リビングの隅、いつものように「私はここにいませんよ」とばかりに、椅子の影にすっぽり隠れていたイワンコ。その小さな背中に向けて、サナは床に膝をつきながら、震える声をかけた。
イワンコの耳がピクリと跳ねる。
けれど、大好きなサナを驚かせないよう、イワンコは絶対に振り返らなかった。ただ、じっと前を見つめたまま、サナが近づいてくるのを待つ。
(……大丈夫、怖くない。イワンコは、優しいから)
サナは自分の胸の動悸をなだめるように、ゆっくりと手を伸ばした。
カントーにいた頃には、自分から生き物に触れようとするなんて考えられなかったことだ。
少しずつ、距離が縮まる。そして――サナの指先が、イワンコの柔らかい茶色の毛並みに、そっと触れた。
「あ……」
あたたかい。
トクトクと小さな命の鼓動が、指先を通じて伝わってくる。
イワンコはサナの練習を台無しにしないよう、体をこわばらせて「目を合わせない」というルールを必死に守っていた。サナの指先が背中から首筋へと、おずおずと撫でていく。
それは、サナにとっても、イワンコにとっても、奇跡のような時間だった。
サナに撫でてもらえた。その純粋な、底抜けた喜びが、まだ幼いイワンコの自制心を上回ってしまったのは、本当に一瞬の、不運な弾みだった。
「わんっ!」
嬉しさを抑えきれず、イワンコは弾かれたように振り返ってしまった。
そして、キラキラと輝く純粋な瞳で、まっすぐにサナの顔を見上げてしまったのだ。
「――っ!?」
その瞬間、世界から音が消えた。
イワンコには、敵意も、サナを品定めするような意図も、これっぽっちも無かった。ただ「嬉しい!」という好意だけだった。
なのに、サナの脳裏には、カントーで自分を嘲笑ってきた人たちの目、自分を持て余した両親の冷ややかな目、そしてあの海岸線で見えた観光客の視線が、津波のようにフラッシュバックした。
見られた。
真っ直ぐに、私の奥の汚いところまで、見透かされている。
「う……あ……っ、嫌、いや……!」
サナの顔から一瞬で血の気が引き、絶望と恐怖がその表情を支配する。
部屋に逃げ帰ろうと足に力を入れようとしたけれど、あまりの恐怖に腰が抜けてしまい、立ち上がることさえできない。
「ひゅ、……っ、あ、……ぅ」
サナはその場に崩れ落ち、頭を抱えて、泥の中に沈むように小さくうずくまってしまった。
過呼吸の苦しさと、また失敗してしまったという絶望が、サナの小さな身体を激しく震わせる。
「わ、わん……?」
自分の行動がサナを深く傷つけてしまったのだと察し、イワンコは耳をペタンと寝かせ、今までにないほど激しく狼狽した。クンクンと悲しげに鳴きながら、どうしていいか分からず、うずくまるサナの周りをオロオロと回る。
リビングの奥で、その様子をハラハラしながら見守っていたガオガエンが、ただごとではないサナの様子に、すぐにククイ博士を呼びに走った。
ガタガタと激しく震え、過呼吸に喘ぐサナ。
せっかく勇気を出して触れてくれたのに、それを壊してしまったと涙目を浮かべるイワンコ。
静かな研究所のリビングに、サナの苦しげな呼吸音と、生き物たちの悲痛な気配だけが満ちていく。
「サナ……! サナ、大丈夫かい!」
ガオガエンの報せを受け、廊下を走ってきたククイ博士がリビングに飛び込んできた。
床にうずくまり、過呼吸で肩を激しく揺らすサナの姿を見て、博士の顔が険しくこわばる。
「わ、わぅん……っ……」
サナの側で、イワンコが今にも泣き出しそうな声を上げて立ち尽くしていた。自分がサナの目を見てしまったから、こんなことになってしまった。そう悔いるように小さな身体を丸めている。
「……イワンコ、大丈夫、お前のせいじゃないさ」
ククイは一瞬だけイワンコの頭を撫でて安心させると、すぐにサナの前に膝をついた。
いつものように無理に触れようとはせず、まずは彼女の視界に自分の大きな手だけを映すように、そっと床に手を置く。
「サナ、俺の声が聞こえるかい。ククイだ。大丈夫、ここは安全な場所だよ。ゆっくり、息を吐いて……吸わなくていい、まずは細く長く、吐き出すんだ」
「ひゅ、……ぅ、……つ、……あ……っ」
サナは耳を塞ぎ、頭を床に擦りつけるようにして、ただ恐怖の波が去るのを耐えていた。
真っ直ぐに向けられた、イワンコのあの純粋な瞳。悪意がないからこそ、それに応えられない自分の醜さが浮き彫りになるようで、息の仕方が本当に分からなくなってしまったのだ。
「サナ、目を開けなくていい。話さなくてもいい。ただ、俺の声を聴いてくれ」
ククイの声は、アローラの地響きのように低く、けれどどこまでも温かくサナの耳の奥へと染み込んでいく。
「イワンコはね、サナに撫でてもらえて、心の底から嬉しかったんだ。嬉しすぎて、つい『ありがとう』を言いたくて、君を見ちゃったんだよ。君を責める目は、ここには一つもないんだぜ」
「……っ、……ぅ……う、あ……」
パニックの霧の向こうから、博士の優しい言葉が少しずつサナの頭に届き始める。
責められていない。笑われてもいない。
そう頭で理解しようとするけれど、一度跳ね上がった心臓はなかなか言うことを聞いてくれない。ガタガタと震えが止まらないサナの背中に、ククイは驚かせないよう、細心の注意を払いながら、そっと大きな掌を滑らせた。
「……っ!」
サナの身体が一瞬ビクッと強張る。けれど、その掌から伝わってくる圧倒的な「体温」と、ゆっくりと上下する博士の優しい呼吸の厳かさに、サナの身体の強張りが、少しずつ、本当に少しずつ解けていく。
「……そうだ、上手だ。ゆっくり、ゆっくりな」
ククイはサナの背中を、まるで小さな赤ん坊をあやすように、優しく、大きな円を描くようにさすり続けた。
どれだけの時間が経っただろう。
激しかったサナの呼吸が、やがて小さな「ひっく、ひっく」というしゃくり上げに変わり、床を濡らす涙だけが静かに溢れ続けた。腰が抜けて立ち上がれないサナを、ククイは壊れ物を扱うようにそっと抱き上げ、ソファへと横たわらせる。
サナは疲れ果てた目で、じっと自分の指先を見つめていた。
イワンコに触れた、あのあたたかい感触。
ソファの足元では、イワンコがまだ心配そうに、けれど今度は絶対に目を合わせないように、サナのサンダルにそっと自分の額を預けて寄り添っていた。その健気な姿に、サナの目からまた一粒、涙がこぼれ落ちる。
「……ごめ、なさ……っ、……ごめんなさい……」
また失敗した。また普通にできなかった。
そんなサナの髪を、ククイは愛おしそうにくしゃりと撫でた。
「謝ることなんて何もないさ。サナ、君は今日、自分からイワンコに触ろうとしたんだろ? 凄いことじゃないか。イワンコも、俺も、今のサナの『変わりたい』って気持ちが、何よりも嬉しいんだ」
博士はそう言って、優しく微笑んだ。
「一歩進んで、転んじゃったら、またここから始めればいい。アローラの時間は、君が思っているよりずーっとのんびり流れてるんだからさ。な?」
博士のその言葉に、サナは小さく、本当に小さく頷いた。
まだ、目は合わせられない。外にも出られない。だけど、この温かい研究所の中には、自分がどれだけ転んでも、静かに手を差し伸べ続けてくれる大人と、不器用な仲間たちがいる。
サナは涙を拭い、ソファの端から少しだけ手を伸ばして、足元で丸まるイワンコの頭を、今度は見ないまま、そっと撫でた。イワンコは嬉しそうに、けれど決して振り返らずに、低く喉を鳴らしてその温もりを受け止めていた。