人見知りのサナの話
「……はかせ」
リビングのソファ。隣に座るククイ博士の袖口を、サナは消え入りそうな声で引いた。
博士は読んでいた本を閉じ、ゆっくりと体をサナの方へと向ける。その動作一つにも、彼女を 怯えさせないための細心の注意が払われていた。
「どうしたんだい、サナ」
「あの…きょう……は……」
サナの小さな拳が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。指関節が白くなるほどの力。彼女の呼吸が、浅く、速くなっていくのが見て取れた。
「チャレンジ、したい……です。博士の、目を、見る……の」
サナの言葉に、博士は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。それから、ひどく優しく、包み込むような笑みを浮かべる。
「そっか。サナがそう思ってくれたなら、俺はいつでも準備万端だぜ。……でも、無理はしなくていいからな?」
「……はい。がんばり、ます……」
サナは何度も深呼吸を繰り返した。
目標は、心の中で決めている。三秒。たった三秒でいい。博士の瞳をちゃんと見て、「ありがとうございます」と言うんだ。普通の人が、挨拶と同じくらい簡単にやっていること。私にだって、きっとできる。
ゆっくりと、サナはうつむいていた顔を上げた。
膝から、博士のシャツの胸元へ。そして、褐色の首元へ。視線を上げるだけで、心臓が爆発しそうに跳ねる。全身の血が沸騰したように熱い。
(大丈夫。博士は怒らない。博士は怖い人じゃない……!)
自分に言い聞かせ、ついに視線をその「目」へと合わせた。
ククイ博士の瞳は、アローラの深い海のように静かで、温かかった。
サナのすべてを拒絶せず、ただまっすぐに受け止めようとしてくれる、大人の男の優しい瞳。
(あ、——)
一秒。
博士の瞳に、怯えている自分の情けない顔が映っているのが見えた。
二秒。
その優しさが、急に怖くなった。こんなに出来損ないの自分を見透かされているような、心の奥のどろどろした暗闇を全部暴かれているような、圧倒的な恐怖が足元からせり上がってくる。
「あ……、っ……」
三秒には、届かなかった。
「ひ、ぅ……っ!」
サナは短い悲鳴のような呼吸を漏らし、弾かれたように顔を伏せた。
途端に、視界がぐにゃりと歪む。酸素が上手く吸えなくなって、喉がひきつれた。まただ。また出来なかった。たった三秒のことが、どうして、どうして私は——。
「サナ、深呼吸だ。ゆっくり吸って、吐いて」
すぐに博士の声が降ってくる。でも、今回はその優しささえも、自分の無能さを突きつけられているようで苦しい。
「ごめ、なさ……、ごめんなさい……っ、私、やっぱり、だめ、で……っ」
「謝らなくていい! 謝らなくていいんだ、サナ」
気がつけば、サナの小さな身体は、博士の大きな腕の中にすっぽりと収まっていた。
視界が完全に遮断され、博士の胸元に顔を埋める形になる。そこには誰も自分を覗き込む視線はなく、ただ、トントン、と背中を叩く規則正しい一定のリズムだけがあった。
「……怖かったな。よく頑張った。偉いぞ、サナ」
「っ、ぅう……、うわぁぁあん……っ」
子供のように声を上げて泣き出したサナの頭を、博士は大きな手で何度も何度も撫でる。
普通の人はできて当たり前。
けれどククイにとっては、今サナが流している涙も、震える身体も、すべてが「一歩進もうとした証拠」だった。
「目が合わなくたって、俺はここにいるさ。君が俺を見てくれなくても、俺はちゃんとサナを見ているからな。だから、今日のところは俺の負けだ。サナの頑張りに、一本取られたぜ」
冗談めかして言う博士の胸の鼓動が、耳のすぐ傍で、温かく響いている。
サナは博士のシャツを涙で濡らしながら、その温もりにただ、ただ縋り付いていた。今日も出来なかった。けれど、この腕の中にいる時だけは、世界で一番安全な場所にいるのだと、それだけは信じることができた。
リビングのソファ。隣に座るククイ博士の袖口を、サナは消え入りそうな声で引いた。
博士は読んでいた本を閉じ、ゆっくりと体をサナの方へと向ける。その動作一つにも、彼女を 怯えさせないための細心の注意が払われていた。
「どうしたんだい、サナ」
「あの…きょう……は……」
サナの小さな拳が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。指関節が白くなるほどの力。彼女の呼吸が、浅く、速くなっていくのが見て取れた。
「チャレンジ、したい……です。博士の、目を、見る……の」
サナの言葉に、博士は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。それから、ひどく優しく、包み込むような笑みを浮かべる。
「そっか。サナがそう思ってくれたなら、俺はいつでも準備万端だぜ。……でも、無理はしなくていいからな?」
「……はい。がんばり、ます……」
サナは何度も深呼吸を繰り返した。
目標は、心の中で決めている。三秒。たった三秒でいい。博士の瞳をちゃんと見て、「ありがとうございます」と言うんだ。普通の人が、挨拶と同じくらい簡単にやっていること。私にだって、きっとできる。
ゆっくりと、サナはうつむいていた顔を上げた。
膝から、博士のシャツの胸元へ。そして、褐色の首元へ。視線を上げるだけで、心臓が爆発しそうに跳ねる。全身の血が沸騰したように熱い。
(大丈夫。博士は怒らない。博士は怖い人じゃない……!)
自分に言い聞かせ、ついに視線をその「目」へと合わせた。
ククイ博士の瞳は、アローラの深い海のように静かで、温かかった。
サナのすべてを拒絶せず、ただまっすぐに受け止めようとしてくれる、大人の男の優しい瞳。
(あ、——)
一秒。
博士の瞳に、怯えている自分の情けない顔が映っているのが見えた。
二秒。
その優しさが、急に怖くなった。こんなに出来損ないの自分を見透かされているような、心の奥のどろどろした暗闇を全部暴かれているような、圧倒的な恐怖が足元からせり上がってくる。
「あ……、っ……」
三秒には、届かなかった。
「ひ、ぅ……っ!」
サナは短い悲鳴のような呼吸を漏らし、弾かれたように顔を伏せた。
途端に、視界がぐにゃりと歪む。酸素が上手く吸えなくなって、喉がひきつれた。まただ。また出来なかった。たった三秒のことが、どうして、どうして私は——。
「サナ、深呼吸だ。ゆっくり吸って、吐いて」
すぐに博士の声が降ってくる。でも、今回はその優しささえも、自分の無能さを突きつけられているようで苦しい。
「ごめ、なさ……、ごめんなさい……っ、私、やっぱり、だめ、で……っ」
「謝らなくていい! 謝らなくていいんだ、サナ」
気がつけば、サナの小さな身体は、博士の大きな腕の中にすっぽりと収まっていた。
視界が完全に遮断され、博士の胸元に顔を埋める形になる。そこには誰も自分を覗き込む視線はなく、ただ、トントン、と背中を叩く規則正しい一定のリズムだけがあった。
「……怖かったな。よく頑張った。偉いぞ、サナ」
「っ、ぅう……、うわぁぁあん……っ」
子供のように声を上げて泣き出したサナの頭を、博士は大きな手で何度も何度も撫でる。
普通の人はできて当たり前。
けれどククイにとっては、今サナが流している涙も、震える身体も、すべてが「一歩進もうとした証拠」だった。
「目が合わなくたって、俺はここにいるさ。君が俺を見てくれなくても、俺はちゃんとサナを見ているからな。だから、今日のところは俺の負けだ。サナの頑張りに、一本取られたぜ」
冗談めかして言う博士の胸の鼓動が、耳のすぐ傍で、温かく響いている。
サナは博士のシャツを涙で濡らしながら、その温もりにただ、ただ縋り付いていた。今日も出来なかった。けれど、この腕の中にいる時だけは、世界で一番安全な場所にいるのだと、それだけは信じることができた。