人見知りのサナの話

遠ざかる足音が完全に消え、リビングの明かりが落とされる気配を、サナはドアに耳を押し当ててじっと探っていた。
(……行った)
ククイ博士が寝室に入ったか、あるいは夜の仕事に出かけた時間。
サナは深く息を吐き出し、そっと鍵を開けて廊下へ出た。
今日は、いつもより少しだけ頭の中の霧が薄い。いわゆる「調子が良い日」だった。
こういう日に、できる限りのことを済ませてしまわなければならない。博士が起きている時間は、どうしても「迷惑をかけている」という罪悪感と恐怖で身体がすくんでしまうから。
暗い廊下を静かに進み、まずは浴室へと向かう。久しぶりに浴びるお湯の温かさに、強張っていた身体が少しだけ解けていくのを感じた。
「ふぅ……」
髪を乾かし、博士の置いてくれたシチューが並ぶキッチンへ向かう。冷めてしまった器をレンジで温め、静まり返った暗がりのなか、一口ずつゆっくりと口に運んだ。
カントーの、実家でよく食べていた味に似ている。
(美味しい……)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
食べ終えた食器をきれいに洗い、シンクを拭き上げる。少しでも、ここにいていい免罪符が欲しかった。自分がただの出来損ないではないと、博士に証明したかったのかもしれない。
すべてを終え、サナは逃げるように再び自分の部屋の殻へと閉じこもった。
画面の向こうの小さな光
同じ時刻。メレメレ島のカプ・ブルルを祀る遺跡の近く、夜間調査のキャンプ地。
ククイはパチパチとはぜる焚き火の前に座り、手元の端末を眺めていた。
画面に映し出されているのは、研究所のリビングを映す、防犯用の遠隔カメラの映像だ。
数日前、サナに「もしものことがあったら」と心配になり、彼女のプライバシーを害さない共有スペースにだけ、そっと設置したものだった。
画面の中で、小さな人影が動いている。
浴室から出てきて、濡れた髪を丁寧に拭いているサナだ。
「……よかった」
ククイの口から、自然と安堵の息が漏れた。
ここ数日、ドア越しに聞こえる呼吸音だけが彼女の生存を確認する術だった。こうして自分の足で歩き、温かいものを食べようとしてくれている。その姿を見るだけで、胸の奥を占めていた重苦しい不安が、みるみるうちに溶けていくようだった。
サナはレンジの前に立ち、出来上がるのをじっと待っている。
その後、静かにシチューを口に運び、少しだけ表情を緩めた瞬間を、ククイは見逃さなかった。
「口に合ってよかったぜ、サナ」
端末の画面を指先でそっとなぞる。
彼女が自分のいない時間を狙って動いていることは、寂しくもあり、同時に愛おしくもあった。彼女は彼女なりに、必死に生きようと、この環境に適応しようともがいているのだ。
サナが綺麗に食器を洗い終え、再び廊下の奥へと消えていくのを見届けてから、ククイは画面を閉じた。
夜空を見上げると、アローラの星々が静かに瞬いている。
(焦る必要なんてどこにもないさ)
彼女がいつか、自分の前でそのシチューを美味しいと言ってくれる日まで。
たとえどれだけ時間がかかろうとも、この静かな命を守り続けようと、ククイは改めて心に誓うのだった。
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