人見知りのサナの話
アローラの夜は、どこまでも青く、そして静かだ。
研究所の玄関の鍵を開け、ククイ博士は深くため息を吐き出した。学会やククイ博士としての仕事から帰るたび、家の中に満ちているのは、南国の明るさとは対照的な「完全な沈黙」だ。
サナが部屋に引きこもるようになってから、もう何週間が経つだろう。
最初は、人と目を合わせるのが苦手、という程度だった。けれど、ある日を境に、彼女の心は完全に外の世界を拒絶してしまった。アローラの眩しい太陽も、人の温かい声も、今のサナにとっては、皮膚を焼き裂く凶器と同じ。
「ただいま、サナ」
誰もいないリビングに向かって、小さく声をかける。もちろん、返事はない。
博士は自分の荷物を置くと、白衣を脱ぐことさえ忘れて、廊下の奥へと足を進めた。サナの部屋の前。固く閉ざされた木目の扉の前に立つ。
ここから先は、彼女の絶対領域だ。
無理に踏み込めば、彼女の繊細な精神は今度こそ木端微塵に砕けてしまう。それは分かっている。だから、博士は絶対にノックをしない。ただ、ゆっくりと膝を折り、ドアに耳を近づけた。
(……生きているかい、サナ)
それは、ククイが仕事から帰るたびに繰り返す、声にならない祈りだった。
息を潜め、廊下の冷たい空気に神経を研ぎ澄ます。
カサリ、とベッドのシーツが擦れるような、微かな音が聞こえた。あるいは、彼女が毛布を被り直しただけの、小さな摩擦音。
「……っ……、……」
続いて聞こえてきたのは、ひどく掠れた、泣き声のような小さな呼吸の音だった。
それだけで、博士の胸はきつく締め付けられる。同時に、歪んだ安堵が全身を駆け巡った。
よかった。今日も、生きていてくれた。
サナは今、自分が生きていることすら罪だと思っているかもしれない。両親に捨てられ、普通の人ができることができず、部屋から出ることすらできない自分を、この世の出来損ないだと責め続けているのだろう。
けれど、扉の向こうで震えている少女に、ククイは心から伝えたかった。
「サナ」
ドアに額を預け、語りかけるように、けれど彼女を脅かさないような低い声で呟く。
「今日の夜ご飯は、カントーのサナの好きだったシチューを作ってみたんだ。無理に食べろとは言わない。ただ、お腹が空いたら、いつでもキッチンに置いてあるからな」
扉の向こうから、返事の代わりに、小さな、本当に小さな嗚咽が漏れた気がした。サナが泣いている。自分を責めて、怯えている。
その涙を拭ってやれない自分の無力さに、ククイは奥歯を噛み締めた。
手を伸ばせば、ドアノブを回せば、すぐにでもその小さな身体を抱きしめてやれるのに。今はそれすら、彼女を追い詰める暴力になり得るのだ。
「焦らなくていい。明日も、明後日も、俺はここにいるから」
ククイは立ち上がり、サナの部屋の前に、そっと温かい食事のトレイを置いた。
「おやすみ、サナ。生きていてくれて、ありがとう」
足音をできるだけ忍ばせながら、博士は廊下を離れていく。
部屋の中で、サナはその遠ざかる足音を聞いていた。彼を拒絶してしまっている罪悪感と、それでも「生きていてくれてありがとう」と言ってくれる、その絶対的な体温。
サナは、シーツに顔を埋めて静かに泣き続けた。まだ部屋から出る勇気は出ない。けれど、ククイの残した言葉の温もりだけが、彼女の消えかけそうな命を、かろうじてこの世界に繋ぎ止めていた。
研究所の玄関の鍵を開け、ククイ博士は深くため息を吐き出した。学会やククイ博士としての仕事から帰るたび、家の中に満ちているのは、南国の明るさとは対照的な「完全な沈黙」だ。
サナが部屋に引きこもるようになってから、もう何週間が経つだろう。
最初は、人と目を合わせるのが苦手、という程度だった。けれど、ある日を境に、彼女の心は完全に外の世界を拒絶してしまった。アローラの眩しい太陽も、人の温かい声も、今のサナにとっては、皮膚を焼き裂く凶器と同じ。
「ただいま、サナ」
誰もいないリビングに向かって、小さく声をかける。もちろん、返事はない。
博士は自分の荷物を置くと、白衣を脱ぐことさえ忘れて、廊下の奥へと足を進めた。サナの部屋の前。固く閉ざされた木目の扉の前に立つ。
ここから先は、彼女の絶対領域だ。
無理に踏み込めば、彼女の繊細な精神は今度こそ木端微塵に砕けてしまう。それは分かっている。だから、博士は絶対にノックをしない。ただ、ゆっくりと膝を折り、ドアに耳を近づけた。
(……生きているかい、サナ)
それは、ククイが仕事から帰るたびに繰り返す、声にならない祈りだった。
息を潜め、廊下の冷たい空気に神経を研ぎ澄ます。
カサリ、とベッドのシーツが擦れるような、微かな音が聞こえた。あるいは、彼女が毛布を被り直しただけの、小さな摩擦音。
「……っ……、……」
続いて聞こえてきたのは、ひどく掠れた、泣き声のような小さな呼吸の音だった。
それだけで、博士の胸はきつく締め付けられる。同時に、歪んだ安堵が全身を駆け巡った。
よかった。今日も、生きていてくれた。
サナは今、自分が生きていることすら罪だと思っているかもしれない。両親に捨てられ、普通の人ができることができず、部屋から出ることすらできない自分を、この世の出来損ないだと責め続けているのだろう。
けれど、扉の向こうで震えている少女に、ククイは心から伝えたかった。
「サナ」
ドアに額を預け、語りかけるように、けれど彼女を脅かさないような低い声で呟く。
「今日の夜ご飯は、カントーのサナの好きだったシチューを作ってみたんだ。無理に食べろとは言わない。ただ、お腹が空いたら、いつでもキッチンに置いてあるからな」
扉の向こうから、返事の代わりに、小さな、本当に小さな嗚咽が漏れた気がした。サナが泣いている。自分を責めて、怯えている。
その涙を拭ってやれない自分の無力さに、ククイは奥歯を噛み締めた。
手を伸ばせば、ドアノブを回せば、すぐにでもその小さな身体を抱きしめてやれるのに。今はそれすら、彼女を追い詰める暴力になり得るのだ。
「焦らなくていい。明日も、明後日も、俺はここにいるから」
ククイは立ち上がり、サナの部屋の前に、そっと温かい食事のトレイを置いた。
「おやすみ、サナ。生きていてくれて、ありがとう」
足音をできるだけ忍ばせながら、博士は廊下を離れていく。
部屋の中で、サナはその遠ざかる足音を聞いていた。彼を拒絶してしまっている罪悪感と、それでも「生きていてくれてありがとう」と言ってくれる、その絶対的な体温。
サナは、シーツに顔を埋めて静かに泣き続けた。まだ部屋から出る勇気は出ない。けれど、ククイの残した言葉の温もりだけが、彼女の消えかけそうな命を、かろうじてこの世界に繋ぎ止めていた。