人見知りのサナの話
扉を一枚挟んだ「おはなしの練習」が始まってから、何日もの時間が流れた。
アローラの強い陽射しが、研究所の窓を柔らかいオレンジ色に染める夕暮れ時。
サナの部屋のドアの前では、今日もイワンコが静かに身体を伏せ、サナの掠れた声にじっと耳を傾けていた。
「きょうはね、……お部屋の、お掃除を……したの……」
ドアの向こうから響くサナの声は、以前よりも少しだけ滑らかになり、途切れる回数も減っていた。
サナが話し終えると、イワンコはいつも通り、床を尻尾でトントンと優しく叩く。
(私の声、ちゃんと届いてる……)
サナは部屋の中で、自分の胸にそっと手を当てた。
この数日間、イワンコは一度もサナを急かさず、責めず、ただそこにいてくれた。姿は見えなくても、その誠実な温もりが、サナの心に積もっていた冷たい恐怖の雪を、少しずつ、少しずつ溶かしてくれていたのだ。
ふと、サナの脳裏に、いつか見た「夢」の光景がよぎった。
ククイ博士と笑い合い、街の人と流暢にお喋りを楽しんでいた、あの自由な自分の姿。
(いつまでも、この扉の後ろに隠れたままじゃ、ダメだよね……)
不甲斐ない自分に絶望して泣いた夜もあった。けれど、今のサナの胸にあるのは、諦めではなく、「もう一歩だけ進んでみたい」という小さな、だけど確かな勇気だった。
サナは意を決して、深く息を吸い込んだ。そして、今まで一度も触れなかった、目の前のドアノブへゆっくりと手を伸ばした。
「イワンコ……。あのね、……あける、よ……?」
その言葉に、ドアの向こうの尻尾の音がピタリと止まる。イワンコが緊張したように息を潜める気配が伝わってきた。
2センチの勇気
サナは指先の震えを堪えながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとドアノブを回した。
カチャリ、と静かな音が響く。
サナはドアをほんの少し――わずか2センチほどだけ、隙間を作るように開けた。
人間の「目」や「表情」を見るのは、まだ狂いそうなほど怖い。だから、サナは決して外を見ようとはせず、自室の床に視線を落としたまま、その2センチの隙間に向かって、もう一度声を絞り出した。
「イワンコ……」
その瞬間だった。
2センチの隙間から、ひょこっと、茶色くて丸い「鼻先」が静かに差し込まれた。
「――っ!」
サナの心臓がドクンと跳ね上がる。けれど、パニックの闇は襲ってこなかった。
なぜなら、イワンコはサナの『視線が怖い』という境界線を絶対に侵さないよう、頭を低く下げ、サナと目を合わせないように床を見つめたまま、鼻先だけを室内にそっと覗かせていたからだ。
目が合わない。表情も見えない。
ただ、すぐそこに、大好きなイワンコの温かい息遣いがある。
サナは床にぽたぽたと涙をこぼした。けれど、それは恐怖の涙ではなかった。自分をこれほどまでに気遣ってくれる、ポケモンの健気な優しさが、痛いほど胸に染みたからだ。
サナは膝を抱えたまま、床を見つめるイワンコの鼻先に向けて、震える唇をそっと開いた。
「……まいにち、お耳を……かしてくれて、ありがとう……」
扉の隙間を抜けて、サナの生の声が、まっすぐにイワンコへと届く。
「わたしね……もっと、おはなし、上手になるから……。だから……これからも、いっしょに、いてね……?」
サナがイワンコの前で、初めて文字ではなく、自分の本当の声で「気持ち」を伝えた瞬間だった。
届いた言葉、静かな誓い
サナの言葉を最後までじっと聞いていたイワンコは、嬉しさに胸を詰まらせるように、喉を「きゅぅぅ……」と小さく切なく鳴らした。
そして、決してサナの身体に直接触れないよう細心の注意を払いながら、その場にぺたんと顎をつけ、床を激しく、だけど音を立てないように何度も何度も尻尾で叩いた。
『聞こえたよ。嬉しいよ。ずっと一緒にいるよ』
言葉はなくても、イワンコの全身から溢れる歓喜が、2センチの隙間を吹き抜ける温かい風のようになってサナを包み込んだ。
「……ふふ、……っ、あはは……」
サナの口から、涙混じりの、だけど今度ははっきりとした愛おしい笑い声が零れ落ちた。
イワンコの前でなら、声が出せる。笑うことができる。
ほんの少しだけ、夢の中の自由な自分に近づけたような気がして、サナは胸の奥が温かい光で満たされるのを感じていた。
リビングの遠く離れた場所で、ククイ博士は壁に背を預け、静かに目元を覆っていた。
ドアの隙間から漏れてきたサナの優しい笑い声と、イワンコの健気な鼻鳴らし。
直接抱きしめて褒めてやることはできないけれど、ククイの口元には、この上なく穏やかで、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
リビングの影では、ガオガエンも腕を組んだまま、静かに深く息を吐き、サナの小さな一歩を祝福するように目を細めている。
生身の人間と向き合うには、まだもう少し時間がかかるかもしれない。
けれど、サナの世界は、扉の隙間の2センチから、確かに新しく、温かく広がり始めていた。
アローラの強い陽射しが、研究所の窓を柔らかいオレンジ色に染める夕暮れ時。
サナの部屋のドアの前では、今日もイワンコが静かに身体を伏せ、サナの掠れた声にじっと耳を傾けていた。
「きょうはね、……お部屋の、お掃除を……したの……」
ドアの向こうから響くサナの声は、以前よりも少しだけ滑らかになり、途切れる回数も減っていた。
サナが話し終えると、イワンコはいつも通り、床を尻尾でトントンと優しく叩く。
(私の声、ちゃんと届いてる……)
サナは部屋の中で、自分の胸にそっと手を当てた。
この数日間、イワンコは一度もサナを急かさず、責めず、ただそこにいてくれた。姿は見えなくても、その誠実な温もりが、サナの心に積もっていた冷たい恐怖の雪を、少しずつ、少しずつ溶かしてくれていたのだ。
ふと、サナの脳裏に、いつか見た「夢」の光景がよぎった。
ククイ博士と笑い合い、街の人と流暢にお喋りを楽しんでいた、あの自由な自分の姿。
(いつまでも、この扉の後ろに隠れたままじゃ、ダメだよね……)
不甲斐ない自分に絶望して泣いた夜もあった。けれど、今のサナの胸にあるのは、諦めではなく、「もう一歩だけ進んでみたい」という小さな、だけど確かな勇気だった。
サナは意を決して、深く息を吸い込んだ。そして、今まで一度も触れなかった、目の前のドアノブへゆっくりと手を伸ばした。
「イワンコ……。あのね、……あける、よ……?」
その言葉に、ドアの向こうの尻尾の音がピタリと止まる。イワンコが緊張したように息を潜める気配が伝わってきた。
2センチの勇気
サナは指先の震えを堪えながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとドアノブを回した。
カチャリ、と静かな音が響く。
サナはドアをほんの少し――わずか2センチほどだけ、隙間を作るように開けた。
人間の「目」や「表情」を見るのは、まだ狂いそうなほど怖い。だから、サナは決して外を見ようとはせず、自室の床に視線を落としたまま、その2センチの隙間に向かって、もう一度声を絞り出した。
「イワンコ……」
その瞬間だった。
2センチの隙間から、ひょこっと、茶色くて丸い「鼻先」が静かに差し込まれた。
「――っ!」
サナの心臓がドクンと跳ね上がる。けれど、パニックの闇は襲ってこなかった。
なぜなら、イワンコはサナの『視線が怖い』という境界線を絶対に侵さないよう、頭を低く下げ、サナと目を合わせないように床を見つめたまま、鼻先だけを室内にそっと覗かせていたからだ。
目が合わない。表情も見えない。
ただ、すぐそこに、大好きなイワンコの温かい息遣いがある。
サナは床にぽたぽたと涙をこぼした。けれど、それは恐怖の涙ではなかった。自分をこれほどまでに気遣ってくれる、ポケモンの健気な優しさが、痛いほど胸に染みたからだ。
サナは膝を抱えたまま、床を見つめるイワンコの鼻先に向けて、震える唇をそっと開いた。
「……まいにち、お耳を……かしてくれて、ありがとう……」
扉の隙間を抜けて、サナの生の声が、まっすぐにイワンコへと届く。
「わたしね……もっと、おはなし、上手になるから……。だから……これからも、いっしょに、いてね……?」
サナがイワンコの前で、初めて文字ではなく、自分の本当の声で「気持ち」を伝えた瞬間だった。
届いた言葉、静かな誓い
サナの言葉を最後までじっと聞いていたイワンコは、嬉しさに胸を詰まらせるように、喉を「きゅぅぅ……」と小さく切なく鳴らした。
そして、決してサナの身体に直接触れないよう細心の注意を払いながら、その場にぺたんと顎をつけ、床を激しく、だけど音を立てないように何度も何度も尻尾で叩いた。
『聞こえたよ。嬉しいよ。ずっと一緒にいるよ』
言葉はなくても、イワンコの全身から溢れる歓喜が、2センチの隙間を吹き抜ける温かい風のようになってサナを包み込んだ。
「……ふふ、……っ、あはは……」
サナの口から、涙混じりの、だけど今度ははっきりとした愛おしい笑い声が零れ落ちた。
イワンコの前でなら、声が出せる。笑うことができる。
ほんの少しだけ、夢の中の自由な自分に近づけたような気がして、サナは胸の奥が温かい光で満たされるのを感じていた。
リビングの遠く離れた場所で、ククイ博士は壁に背を預け、静かに目元を覆っていた。
ドアの隙間から漏れてきたサナの優しい笑い声と、イワンコの健気な鼻鳴らし。
直接抱きしめて褒めてやることはできないけれど、ククイの口元には、この上なく穏やかで、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
リビングの影では、ガオガエンも腕を組んだまま、静かに深く息を吐き、サナの小さな一歩を祝福するように目を細めている。
生身の人間と向き合うには、まだもう少し時間がかかるかもしれない。
けれど、サナの世界は、扉の隙間の2センチから、確かに新しく、温かく広がり始めていた。
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