人見知りのサナの話
サナの部屋のドアの前には、今日も一枚の白いノートが置かれていた。
そこには、震える手で書かれたサナの細い文字が残されている。
『イワンコへ。おはなしの、れんしゅうをさせてください』
リビングでそれを見つけたククイ博士は、小さく目を見開いたあと、そっと愛おしそうに目を細めた。
サナが怯えているのは、自分に向ける他人の「視線」、何を考えているか分からない「表情」、そして自分を値踏みするような「言葉」の反応だ。
それなら――扉を一枚挟んで、お互いの姿が完全に見えない状態なら。
そして、言葉を返さない、ただじっと耳を傾けてくれるイワンコ相手なら、言葉を紡ぐ練習ができるかもしれない。サナが自分で考え抜いた、精一杯の「前進」へのアイデアだった。
「イワンコ。サナの特訓、手伝ってくれるかい?」
ククイが声をかけると、イワンコは嬉しそうに「ワン!」と短く吠え、自ら進んでサナの部屋のドアの前へと歩いていった。
遮られた世界、届く声
サナは部屋の中で、固く閉ざされたドアの前に座り込んでいた。
背中を壁に預け、膝を抱える。目の前にある木目の扉が、今は世界で一番安全な「盾」だった。
ドアの向こうから、トタトタ、と小さな足音が近づいてきて、やがて静かに止まる気配がした。続いて、衣擦れに似た「ザリ……」という音が聞こえる。イワンコが、ドアの外側にぴったりと身体を伏せたのだ。
(イワンコ、そこにいるんだよね……)
サナは喉の奥を、ごくりと鳴らした。
姿は見えない。イワンコがどんな目をしているかも、どんな表情で自分を待っているかも分からない。ただ、扉の向こうから微かに伝わってくる、生き物の暖かさだけがある。
サナは両手をぎゅっと握りしめ、痛む喉から、小さな音を絞り出した。
「……ぃ、……いわ、んこ……」
部屋の静寂に、かすれた声が落ちる。
その瞬間、ドアの向こうでイワンコの耳がピクリと跳ねる気配が、木目を伝ってサナの背中に届いた。
イワンコは、吠えなかった。
ここで「ワン!」と大きな声を上げてしまえば、その『言葉(反応)』がサナを驚かせてしまうことを、この賢いポケモンはちゃんと理解していた。
ただ、サナの声をじっと待つように、じっと息を潜めている。
「お、……おは、よう……。あ、アローラ……」
一番言いたかった言葉。
ククイ博士の前では、身体が震えて視界が真っ黒になって言えなかった、アローラの挨拶。
扉の向こうのイワンコは、サナのその言葉を聞いて、嬉しさを抑えきれないように、床を尻尾でトントン、トントンと小さく叩いた。
「視線」もない。「表情」もない。自分を責める「言葉」の反応もない。
あるのは、自分の声をただ嬉しそうに受け止めてくれる、優しい尻尾の音だけ。
「……っ、ふふ……」
サナの唇から、本当に久しぶりに、小さな、乾いた笑みが零れ落ちた。
恐怖の涙ではなく、嬉しくて、自分の声が届いたことが誇らしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「きょうはね、……風邪、治ったの……。お粥、おいしかったよ……。……ありが、とう……」
サナは、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
流暢には喋れない。一言話すたびに、息が詰まりそうになる。
けれど、サナが言葉を途切れさせるたびに、ドアの向こうのイワンコは「聞いてるよ」「大丈夫だよ」と伝えるように、そっと床を尻尾で叩き、静かなリズムを返してくれた。
リビングの遠く離れたキッチンで、ククイ博士は二人の邪魔をしないよう、静かにコーヒーを淹れながらその音を聴いていた。
生身の人間と向き合うには、まだ気が遠くなるほどの時間がかかるかもしれない。
テレビの画面を見るだけで、まだパニックを起こしてしまうかもしれない。
けれど、姿の見えない扉越しで、言葉を返さない優しいポケモン相手なら、サナは確かに自分の世界を広げ始めていた。
アローラののどかな昼下がり。閉ざされたドアを挟んで、少女と小さなポケモンの、優しくて静かな特訓は、何度も、何度も繰り返されていた。
そこには、震える手で書かれたサナの細い文字が残されている。
『イワンコへ。おはなしの、れんしゅうをさせてください』
リビングでそれを見つけたククイ博士は、小さく目を見開いたあと、そっと愛おしそうに目を細めた。
サナが怯えているのは、自分に向ける他人の「視線」、何を考えているか分からない「表情」、そして自分を値踏みするような「言葉」の反応だ。
それなら――扉を一枚挟んで、お互いの姿が完全に見えない状態なら。
そして、言葉を返さない、ただじっと耳を傾けてくれるイワンコ相手なら、言葉を紡ぐ練習ができるかもしれない。サナが自分で考え抜いた、精一杯の「前進」へのアイデアだった。
「イワンコ。サナの特訓、手伝ってくれるかい?」
ククイが声をかけると、イワンコは嬉しそうに「ワン!」と短く吠え、自ら進んでサナの部屋のドアの前へと歩いていった。
遮られた世界、届く声
サナは部屋の中で、固く閉ざされたドアの前に座り込んでいた。
背中を壁に預け、膝を抱える。目の前にある木目の扉が、今は世界で一番安全な「盾」だった。
ドアの向こうから、トタトタ、と小さな足音が近づいてきて、やがて静かに止まる気配がした。続いて、衣擦れに似た「ザリ……」という音が聞こえる。イワンコが、ドアの外側にぴったりと身体を伏せたのだ。
(イワンコ、そこにいるんだよね……)
サナは喉の奥を、ごくりと鳴らした。
姿は見えない。イワンコがどんな目をしているかも、どんな表情で自分を待っているかも分からない。ただ、扉の向こうから微かに伝わってくる、生き物の暖かさだけがある。
サナは両手をぎゅっと握りしめ、痛む喉から、小さな音を絞り出した。
「……ぃ、……いわ、んこ……」
部屋の静寂に、かすれた声が落ちる。
その瞬間、ドアの向こうでイワンコの耳がピクリと跳ねる気配が、木目を伝ってサナの背中に届いた。
イワンコは、吠えなかった。
ここで「ワン!」と大きな声を上げてしまえば、その『言葉(反応)』がサナを驚かせてしまうことを、この賢いポケモンはちゃんと理解していた。
ただ、サナの声をじっと待つように、じっと息を潜めている。
「お、……おは、よう……。あ、アローラ……」
一番言いたかった言葉。
ククイ博士の前では、身体が震えて視界が真っ黒になって言えなかった、アローラの挨拶。
扉の向こうのイワンコは、サナのその言葉を聞いて、嬉しさを抑えきれないように、床を尻尾でトントン、トントンと小さく叩いた。
「視線」もない。「表情」もない。自分を責める「言葉」の反応もない。
あるのは、自分の声をただ嬉しそうに受け止めてくれる、優しい尻尾の音だけ。
「……っ、ふふ……」
サナの唇から、本当に久しぶりに、小さな、乾いた笑みが零れ落ちた。
恐怖の涙ではなく、嬉しくて、自分の声が届いたことが誇らしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「きょうはね、……風邪、治ったの……。お粥、おいしかったよ……。……ありが、とう……」
サナは、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
流暢には喋れない。一言話すたびに、息が詰まりそうになる。
けれど、サナが言葉を途切れさせるたびに、ドアの向こうのイワンコは「聞いてるよ」「大丈夫だよ」と伝えるように、そっと床を尻尾で叩き、静かなリズムを返してくれた。
リビングの遠く離れたキッチンで、ククイ博士は二人の邪魔をしないよう、静かにコーヒーを淹れながらその音を聴いていた。
生身の人間と向き合うには、まだ気が遠くなるほどの時間がかかるかもしれない。
テレビの画面を見るだけで、まだパニックを起こしてしまうかもしれない。
けれど、姿の見えない扉越しで、言葉を返さない優しいポケモン相手なら、サナは確かに自分の世界を広げ始めていた。
アローラののどかな昼下がり。閉ざされたドアを挟んで、少女と小さなポケモンの、優しくて静かな特訓は、何度も、何度も繰り返されていた。