人見知りのサナの話
アローラの、静かな午後。
前回の失敗から、サナは部屋にこもり、膝を抱えながら必死に考えていた。
どうして私は、あんなに優しいククイ博士と話せないんだろう。どうして身体が震え、目の前が真っ暗になってしまうんだろう。
(……目が、合うからだ)
(私が近づいたときに、博士の『視線』が私を真っ直ぐ捉えてしまうから)
生身の人間と対面して、その瞳に見つめられる。それが今のサナにとっては、すべてのトラウマのスイッチを押す原因だった。
なら――目が合わない方法なら、どうだろう。
視界の端にも、あの恐ろしい『人間の目』が入らない方法。
そこでサナが思いついたのが、「内緒話」だった。
博士の背後からおずおずと近づき、その耳元にだけ声を届ける。
これなら、話している間、博士の顔を見る必要はない。博士の視線も、当然前を向いたままだ。自分は博士の大きな背中だけを見つめ、声を出すことだけに全神経を集中できる。
(これなら、できるかもしれない……)
小さなノートに、サナは掠れた文字で、自分の計画を書き留めた。
『ククイ博士。おねがいがあります。わたしが後ろにいったら、絶対にふり向かないで、前をむいたままでいてください。内緒話をさせてください』
リビングのデスクで研究データを整理していたククイ博士は、ドアの隙間からすっと差し込まれたそのメモを読み、静かに、優しく目を細めた。
「分かったぜ、サナ。約束する。俺は絶対に、君が声をかけてくれるまで前を向いたままだ」
デスクの向こうに向かって、ククイは穏やかな声を返す。
ガチャ、と小さな音がして、サナが部屋から出てきた。
その足取りは、いつになく緊張で強張っている。リビングの隅では、ガオガエンもイワンコも、サナの邪魔をしないよう、最初から壁の方を向いて完全に気配を消していた。
サナは、デスクに座るククイの背中を見つめた。
大きな、白衣を纏った背中。振り向かないと約束してくれた、信頼できる背中。
(大丈夫。博士は振り向かない。目は合わない……!)
サナは胸に手を当て、狂いそうになる心臓を必死に宥めながら、一歩ずつ博士の背後へと近づいていった。
あと三歩。あと二歩。
いつもなら、この距離に近づくだけで頭痛と目眩が襲い、視界が真っ黒になっていたはずだった。けれど、博士の「目は合わない」という絶対的な安心感が、サナの身体の震えを辛うじて踏みとどまらせていた。
ついに、博士の椅子のすぐ後ろにたどり着く。
サナは小さく息を吸い込み、おずおずと、博士の耳元へと顔を近づけた。
博士の髪の香りと、大人の男の人の体温がすぐ近くに感じられて、一瞬だけ指先がぶるりと震える。けれど、サナはぎゅっと拳を握りしめ、喉の痛みに耐えながら、息を吹きかけるようにして声を絞り出した。
「……あ、……ろ……ら……」
かすれて、消え入りそうな、だけど今度こそ博士の耳へとまっすぐ届いた、小さな小さな挨拶。
届いた言葉、守られた約束
ククイは、耳元に届いたその小さな、愛おしい声を聴いた瞬間、胸が熱くなるのを感じた。
今すぐにでも振り返って、彼女の頑張りを褒めてやりたかった。よく頑張ったな、と頭を撫でてやりたかった。
けれど、ククイは椅子の背もたれを握りしめ、頑なに前を向いたまま、絶対に身体を動かさなかった。
今ここで自分が嬉しさのあまり振り返ってしまえば、この少女が命がけで手に入れた「内緒話」という唯一の武器を、また恐怖で奪ってしまうことになる。
ククイはデスクの上の書類を見つめたまま、声音をできる限り優しく落として、そっと返事をした。
「……アローラ、サナ。……最高の挨拶を、ありがとうな」
博士が前を向いたままでいてくれた。
その事実が、サナの心に、これまでで一番大きな『安心』の雨を降らせた。
「……ぅ、……っ」
目の前が真っ暗になることはなかった。
吐き気に襲われることもなかった。
ただ、自分が編み出した不器用な方法を受け入れてもらえた喜びで、サナの目からポロポロと涙がこぼれ落ち、博士の白衣の肩口に小さなシミを作った。
サナはそれ以上何も言わず、けれどどこか満足そうな気配を残して、パタパタと自分の部屋へと走って戻っていった。
パタン、と静かにドアが閉まる。
その音を聞いて、ククイ博士はようやく、深く、大きく息を吐き出しながら振り返った。
リビングの隅で息を潜めていたガオガエンも、ゆっくりと顔を上げ、どこかホッとしたように喉を低く鳴らした。
「……やったな、サナ」
ククイは自分の肩の、小さな涙の跡を見つめながら、静かに微笑んだ。
真っ正面から向き合える日は、まだずっと先かもしれない。けれど、触れ合わなくても、目が合わなくても、彼女は今、自分の力で「外の世界」への扉を、内緒話という小さな隙間から、確かに開き始めていた。
前回の失敗から、サナは部屋にこもり、膝を抱えながら必死に考えていた。
どうして私は、あんなに優しいククイ博士と話せないんだろう。どうして身体が震え、目の前が真っ暗になってしまうんだろう。
(……目が、合うからだ)
(私が近づいたときに、博士の『視線』が私を真っ直ぐ捉えてしまうから)
生身の人間と対面して、その瞳に見つめられる。それが今のサナにとっては、すべてのトラウマのスイッチを押す原因だった。
なら――目が合わない方法なら、どうだろう。
視界の端にも、あの恐ろしい『人間の目』が入らない方法。
そこでサナが思いついたのが、「内緒話」だった。
博士の背後からおずおずと近づき、その耳元にだけ声を届ける。
これなら、話している間、博士の顔を見る必要はない。博士の視線も、当然前を向いたままだ。自分は博士の大きな背中だけを見つめ、声を出すことだけに全神経を集中できる。
(これなら、できるかもしれない……)
小さなノートに、サナは掠れた文字で、自分の計画を書き留めた。
『ククイ博士。おねがいがあります。わたしが後ろにいったら、絶対にふり向かないで、前をむいたままでいてください。内緒話をさせてください』
リビングのデスクで研究データを整理していたククイ博士は、ドアの隙間からすっと差し込まれたそのメモを読み、静かに、優しく目を細めた。
「分かったぜ、サナ。約束する。俺は絶対に、君が声をかけてくれるまで前を向いたままだ」
デスクの向こうに向かって、ククイは穏やかな声を返す。
ガチャ、と小さな音がして、サナが部屋から出てきた。
その足取りは、いつになく緊張で強張っている。リビングの隅では、ガオガエンもイワンコも、サナの邪魔をしないよう、最初から壁の方を向いて完全に気配を消していた。
サナは、デスクに座るククイの背中を見つめた。
大きな、白衣を纏った背中。振り向かないと約束してくれた、信頼できる背中。
(大丈夫。博士は振り向かない。目は合わない……!)
サナは胸に手を当て、狂いそうになる心臓を必死に宥めながら、一歩ずつ博士の背後へと近づいていった。
あと三歩。あと二歩。
いつもなら、この距離に近づくだけで頭痛と目眩が襲い、視界が真っ黒になっていたはずだった。けれど、博士の「目は合わない」という絶対的な安心感が、サナの身体の震えを辛うじて踏みとどまらせていた。
ついに、博士の椅子のすぐ後ろにたどり着く。
サナは小さく息を吸い込み、おずおずと、博士の耳元へと顔を近づけた。
博士の髪の香りと、大人の男の人の体温がすぐ近くに感じられて、一瞬だけ指先がぶるりと震える。けれど、サナはぎゅっと拳を握りしめ、喉の痛みに耐えながら、息を吹きかけるようにして声を絞り出した。
「……あ、……ろ……ら……」
かすれて、消え入りそうな、だけど今度こそ博士の耳へとまっすぐ届いた、小さな小さな挨拶。
届いた言葉、守られた約束
ククイは、耳元に届いたその小さな、愛おしい声を聴いた瞬間、胸が熱くなるのを感じた。
今すぐにでも振り返って、彼女の頑張りを褒めてやりたかった。よく頑張ったな、と頭を撫でてやりたかった。
けれど、ククイは椅子の背もたれを握りしめ、頑なに前を向いたまま、絶対に身体を動かさなかった。
今ここで自分が嬉しさのあまり振り返ってしまえば、この少女が命がけで手に入れた「内緒話」という唯一の武器を、また恐怖で奪ってしまうことになる。
ククイはデスクの上の書類を見つめたまま、声音をできる限り優しく落として、そっと返事をした。
「……アローラ、サナ。……最高の挨拶を、ありがとうな」
博士が前を向いたままでいてくれた。
その事実が、サナの心に、これまでで一番大きな『安心』の雨を降らせた。
「……ぅ、……っ」
目の前が真っ暗になることはなかった。
吐き気に襲われることもなかった。
ただ、自分が編み出した不器用な方法を受け入れてもらえた喜びで、サナの目からポロポロと涙がこぼれ落ち、博士の白衣の肩口に小さなシミを作った。
サナはそれ以上何も言わず、けれどどこか満足そうな気配を残して、パタパタと自分の部屋へと走って戻っていった。
パタン、と静かにドアが閉まる。
その音を聞いて、ククイ博士はようやく、深く、大きく息を吐き出しながら振り返った。
リビングの隅で息を潜めていたガオガエンも、ゆっくりと顔を上げ、どこかホッとしたように喉を低く鳴らした。
「……やったな、サナ」
ククイは自分の肩の、小さな涙の跡を見つめながら、静かに微笑んだ。
真っ正面から向き合える日は、まだずっと先かもしれない。けれど、触れ合わなくても、目が合わなくても、彼女は今、自分の力で「外の世界」への扉を、内緒話という小さな隙間から、確かに開き始めていた。