人見知りのサナの話
「今日こそは、ちゃんと言おう」
部屋の鏡の前で、サナは掠れた喉を小さく鳴らしながら、何度も口の形を動かしていた。
「あ」の形。「ろ」の形。「ら」の形。
戻ってきたばかりの、自分の声。
風邪の熱が下がって、身体が少しだけ動くようになった今だからこそ、いつも扉の向こうから見守ってくれるククイ博士に、アローラの言葉でちゃんと挨拶がしたかった。
夢の中のあの自由な自分に、ほんの少しでも近づきたかったのだ。
サナは小さく深呼吸をして、何日ぶりかに、自らの意思で部屋のドアノブを回した。
リビングに足を踏み入れると、カウンターの向こうでククイ博士がノートを開いているのが見えた。
いつも通りの、大きくて、温かい、頼れる大人の背中。
(大丈夫。歩いて、近くに行って、声を出すだけ……)
サナは床を見つめながら、一歩、また一歩と博士の方へ足を進めた。
あと数歩。博士の後ろ姿が、自分の視界の中で少しずつ大きくなっていく。
――だが、現実はサナが思っているよりも、ずっと残酷で、甘くはなかった。
博士の、あの「背中をさすられた」大きな掌が近づいてくる感覚。
それが脳裏をよぎった瞬間、サナの身体の奥深くで、眠っていたトラウマの怪物が一気に目を覚ました。
「っ……、……ぁ……!」
心臓が、破裂しそうなほどの音を立てて暴れ始める。
一歩進むごとに、身体が自分の意志を無視してぶるぶると激しく震えだし、膝の力がガタガタと抜けていく。
(どうして……? 挨拶したいだけなのに……っ)
必死に耐えようと奥歯を噛み締めたが、パニックの波は容赦なくサナを飲み込んでいった。
肺が急速に縮こまり、酸素が上手く吸えなくなって「ひゅっ、ひゅっ」と激しい過呼吸の音が喉から漏れる。
それと同時に、視界の端からじわじわと真っ黒な闇が広がり、眩しいはずのアローラの光が遮られていく。目の前が真っ暗になり、自分がどこに立っているのかすら分からなくなるほどの恐怖と目眩。
冷静でいろ、大丈夫だ、と頭の中で叫ぶのに、身体が完全に拒絶を起こしていた。近づくだけで、これだ。男の人の側に寄るだけで、私の身体は壊れそうになってしまう。
「――サナ……!?」
激しい足音と過呼吸の気配に気づき、ククイ博士が勢いよく振り返った。
その瞬間、サナは視界が真っ暗な中でも、博士がこちらを向いた気配を敏感に察知し、悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えてその場にガタガタと崩れ落ちた。
「ひっ、……ぅ、……つ、あ……っ」
床に両手を突き、涙をボロボロとこぼしながら、激しく肩を揺らす。
またダメだった。挨拶どころか、近づくことさえできない。普通に接したいのに、身体が博士を「拒絶」してしまう。
ククイはサナが崩れ落ちた瞬間、あの日撒き散らされた吐瀉物の光景と、彼女に「触れてはならない」という鉄則を即座に思い出し、伸ばしかけた手をピタリと止めた。
近づけば、彼女のパニックをさらに悪化させる。
ククイは慌てて三歩後ろに下がり、サナとの距離を大きく空けた。
「すまない、サナ! 下がったよ、俺はここにいる。近づかないから、大丈夫だ……!」
博士の声は、少し離れた場所から、サナの暗闇の視界へと優しく届いた。
「挨拶しようとしてくれたんだろ? 側に来ようとしてくれたんだよな。ありがとう。……でも、無理しなくていいんだ。君がそこにいてくれるだけで、俺はちゃんと『アローラ』って聞こえた気がするぜ」
博士はサナを急かすことも、情けない姿を責めることもしなかった。ただ、適切な距離を保ったまま、静かにサナの呼吸が落ち着くのを待ってくれている。
リビングの隅では、ガオガエンとイワンコが、サナを驚かせないよう最初から顔を伏せ、気配を消して静かに佇んでいた。
(……ごめんなさい、……ごめんなさい……)
サナは真っ黒な視界の中で、心の中で何度もそう呟きながら、ただ激しい呼吸の嵐が去るのを耐えていた。
現実は甘くない。すぐに普通の女の子には戻れない。けれど、どれだけ無様でも、どれだけ時間がかかっても、この研究所の人々とポケモンたちは、彼女が再び立ち上がるその時を、静かに待ち続けていた。
部屋の鏡の前で、サナは掠れた喉を小さく鳴らしながら、何度も口の形を動かしていた。
「あ」の形。「ろ」の形。「ら」の形。
戻ってきたばかりの、自分の声。
風邪の熱が下がって、身体が少しだけ動くようになった今だからこそ、いつも扉の向こうから見守ってくれるククイ博士に、アローラの言葉でちゃんと挨拶がしたかった。
夢の中のあの自由な自分に、ほんの少しでも近づきたかったのだ。
サナは小さく深呼吸をして、何日ぶりかに、自らの意思で部屋のドアノブを回した。
リビングに足を踏み入れると、カウンターの向こうでククイ博士がノートを開いているのが見えた。
いつも通りの、大きくて、温かい、頼れる大人の背中。
(大丈夫。歩いて、近くに行って、声を出すだけ……)
サナは床を見つめながら、一歩、また一歩と博士の方へ足を進めた。
あと数歩。博士の後ろ姿が、自分の視界の中で少しずつ大きくなっていく。
――だが、現実はサナが思っているよりも、ずっと残酷で、甘くはなかった。
博士の、あの「背中をさすられた」大きな掌が近づいてくる感覚。
それが脳裏をよぎった瞬間、サナの身体の奥深くで、眠っていたトラウマの怪物が一気に目を覚ました。
「っ……、……ぁ……!」
心臓が、破裂しそうなほどの音を立てて暴れ始める。
一歩進むごとに、身体が自分の意志を無視してぶるぶると激しく震えだし、膝の力がガタガタと抜けていく。
(どうして……? 挨拶したいだけなのに……っ)
必死に耐えようと奥歯を噛み締めたが、パニックの波は容赦なくサナを飲み込んでいった。
肺が急速に縮こまり、酸素が上手く吸えなくなって「ひゅっ、ひゅっ」と激しい過呼吸の音が喉から漏れる。
それと同時に、視界の端からじわじわと真っ黒な闇が広がり、眩しいはずのアローラの光が遮られていく。目の前が真っ暗になり、自分がどこに立っているのかすら分からなくなるほどの恐怖と目眩。
冷静でいろ、大丈夫だ、と頭の中で叫ぶのに、身体が完全に拒絶を起こしていた。近づくだけで、これだ。男の人の側に寄るだけで、私の身体は壊れそうになってしまう。
「――サナ……!?」
激しい足音と過呼吸の気配に気づき、ククイ博士が勢いよく振り返った。
その瞬間、サナは視界が真っ暗な中でも、博士がこちらを向いた気配を敏感に察知し、悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えてその場にガタガタと崩れ落ちた。
「ひっ、……ぅ、……つ、あ……っ」
床に両手を突き、涙をボロボロとこぼしながら、激しく肩を揺らす。
またダメだった。挨拶どころか、近づくことさえできない。普通に接したいのに、身体が博士を「拒絶」してしまう。
ククイはサナが崩れ落ちた瞬間、あの日撒き散らされた吐瀉物の光景と、彼女に「触れてはならない」という鉄則を即座に思い出し、伸ばしかけた手をピタリと止めた。
近づけば、彼女のパニックをさらに悪化させる。
ククイは慌てて三歩後ろに下がり、サナとの距離を大きく空けた。
「すまない、サナ! 下がったよ、俺はここにいる。近づかないから、大丈夫だ……!」
博士の声は、少し離れた場所から、サナの暗闇の視界へと優しく届いた。
「挨拶しようとしてくれたんだろ? 側に来ようとしてくれたんだよな。ありがとう。……でも、無理しなくていいんだ。君がそこにいてくれるだけで、俺はちゃんと『アローラ』って聞こえた気がするぜ」
博士はサナを急かすことも、情けない姿を責めることもしなかった。ただ、適切な距離を保ったまま、静かにサナの呼吸が落ち着くのを待ってくれている。
リビングの隅では、ガオガエンとイワンコが、サナを驚かせないよう最初から顔を伏せ、気配を消して静かに佇んでいた。
(……ごめんなさい、……ごめんなさい……)
サナは真っ黒な視界の中で、心の中で何度もそう呟きながら、ただ激しい呼吸の嵐が去るのを耐えていた。
現実は甘くない。すぐに普通の女の子には戻れない。けれど、どれだけ無様でも、どれだけ時間がかかっても、この研究所の人々とポケモンたちは、彼女が再び立ち上がるその時を、静かに待ち続けていた。