人見知りのサナの話

――パリン、と。
静かな研究所のリビングに、あまりにも不吉な高音が響き渡った。
サナが自分の部屋で飲むために、キッチンから水を持って行こうとした時のことだ。おぼつかない手元からすべり落ちたガラスのグラスが、床に激しく叩きつけられ、無数の鋭い破片となって飛び散ってしまった。
「あ、……っ、」
サナはパニックに陥りそうになる頭を必死で押さえ、恐怖に顔を歪めながら床に膝を突いた。
片付けなきゃ。また迷惑をかけた。また私は失敗した。早く綺麗にしないと、ククイ博士が、ポケモンたちが、この破片で怪我をしてしまう。
焦りと恐怖に突き動かされるまま、サナは素手のままで、床に散らばる鋭利なガラス片を掴み集め始めた。
指先に走る、チクリとした痛みの予感。けれど、今のサナにはそれを顧みる余裕さえなかった。
その時、サナの手が、一際大きくて尖った、ナイフのようなガラスの破片を掴み上げた。
(……あ、)
サナの動きが、ぴたりと止まった。
その鋭い先端を見つめているうちに、サナの頭の奥に、冷たくて、けれど酷く甘美な思考が、とろりと湧き上がってきた。
このまま、このガラスで、自分の手首を深く切り裂いてしまえば。
ここで私が死んでしまえば、もうこれ以上、ククイ博士に迷惑をかけることもない。優しいポケモンたちに、気を遣わせて寝たふりをさせる必要もなくなる。
私だって……もう、あんな残酷な夢を見て絶望することもない。人と目が合う恐怖に、息ができなくなる辛さに、怯え続ける毎日から、ようやく解放される。
(死んじゃえば……全部、終わるんだ……)
サナの瞳から光が消え、吸い込まれるようにガラス片の先端を見つめたまま、人形のように固まってしまった。
届かない距離からの、大人の綱渡り
「サナ。――動かないで、そのままじっとしていてくれ」
背後から聞こえてきたククイ博士の声は、驚くほど低く、地を這うように静かだった。
博士はサナの部屋の様子を見に来ようとして、偶然、この最悪な場面を目撃してしまったのだ。
素手で鋭いガラス片を握りしめ、虚ろな目でそれを見つめて硬直しているサナ。その危うい空気から、彼女の脳裏に今、どんな恐ろしい考えが過っているかを、ククイは一瞬で察知した。
今すぐ駆け寄って、その手からガラスを叩き落としたい。
けれど、自分が大声を上げたり、焦って距離を詰めたりすれば、サナは驚いて自分の身体を傷つけてしまうかもしれない。あるいは、初日のように激しい拒絶を起こして、自暴自棄になってしまうかもしれない。
ククイにとって、それは一歩も間違えられない、極限の綱渡りだった。
「グラスを割っちゃったんだな。大丈夫、そんなのはただの形ある物だ。気にしなくていいさ。……サナ、まずはその、手に持っているガラス片を、そっと床に置くんだ。な?」
ククイはサナを刺激しないよう、いつもより数歩遠い位置で立ち止まり、ゆっくりと両手を広げて見せた。
俺は襲わない。近づかない。だから、落ち着いてくれ。そう全身で示しながら、諭すように言葉を紡ぐ。
「……サナ、俺を見て、とは言わない。ただ、俺の声を聴いてくれ。君が怪我をしたら、俺は本当に悲しい。……ゆっくり、指の力を抜くんだ。床に、ぽんと置くだけでいいんだぜ」
博士の、どこまでも穏やかで、けれど微かに震える声が、サナの耳の奥へと届いた。
死の誘惑で満たされていたサナの脳内に、博士の温かい体温のような言葉が、少しずつ染み込んでいく。
怪我をしたら、悲しい、と博士は言った。こんな出来損ないの私が傷つくことを、心から恐れてくれている大人が、目の前にいる。
「……あ、……っ……」
サナの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
張り詰めていた指先から、すうっと力が抜けていく。
カラン、と小さな音を立てて、鋭いガラス片がサナの手から床へと落ちた。
「……上手だ。よく手放してくれたな、サナ。ありがとう」
ククイは心の底から安堵したように、深く、長い息を吐き出した。
まだ、サナに触れることはできない。抱きしめて泣かせてやることもできない。
けれどククイは、サナを驚かせないよう十分な距離を保ったまま、床に静かに膝を突いた。
「サナ、そのまま動かないで。今、俺が箒とチリトリを持ってくるからね。君の手が汚れないように、全部俺に片付けさせてくれ」
サナは膝を抱え、床に落ちたガラス片を見つめながら、声を殺して泣き続けた。
死んでしまえば楽になれると思った。だけど、この温かい研究所の大人と仲間たちは、自分がどれだけ壊れても、その破片ごと静かに守り続けようとしてくれる。
サナは涙を拭う気力もないまま、小さく、本当に小さく頷いた。
言葉にならなくても、その小さな拒絶の終わりを、ククイは優しい眼差しでしっかりと受け止めていた。
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