人見知りのサナの話
連日の憔悴、そして風邪の熱による寝込み――。
心も身体も限界だったサナは、何日もまともにお風呂に入ることができていなかった。
ふと布団の中で自分の腕の匂いを嗅いだとき、ツンとする汗の、あからさまな「体臭」が鼻を突いた。女の子として、その事実はサナの心をひどく傷つけ、惨めな気持ちにさせた。
汚い。臭い。こんな状態で、博士やポケモンたちのいるリビングの近くを通るなんて、恥ずかしくて死んでしまいたかった。
けれど、これ以上放置すれば、本当に身体が病気になってしまう。
サナは震える指先で、文字を綴った。
いつもよりさらに小さく、消え入りそうな文字だった。
『おふろに、入りたいです。でも、だれにも、すがたを見られたくないです。お願いです、だれとも会わないように、おねがいします』
その紙がドアの隙間からすっと差し出されたとき、ククイ博士はすぐにその意図を察した。
女の子のプライドを傷つけないよう、その文字を読んでも表情ひとつ変えず、深く、頼もしく頷いてみせる。
「分かった。サナ、全部俺に任せておけ!」
ククイはすぐに白衣の袖をまくり上げ、リビングにいる相棒たちに向き直った。
完璧な「絶対領域」の構築
「ガオガエン、イワンコ、ウォーグル。緊急事態だ」
ククイは声を潜め、真剣な眼差しでポケモンたちを見つめた。
「今からサナがお風呂に入る。部屋から脱衣所までのルートに、1ミリの死角も、1つの視線も存在しちゃいけない。……みんな、奥の寝室へ移動して、サナが部屋に戻るまで絶対に鍵を開けないで待っていてくれ」
ククイの強い口調に、ポケモンたちは事の重大さを察した。
ガオガエンは力強く頷くと、イワンコをそっと促し、ウォーグルと共にククイの奥の寝室へと静かに大移動を開始した。ガチャリと寝室のドアが閉まり、完全に鍵がかけられる。これで、ポケモンたちとサナが鉢合わせる可能性はゼロになった。
(よし……次は俺の番だな)
ククイはリビングの時計を見た。
サナが移動する間、自分も彼女の視界に入ってはならない。
ククイは洗面所の湯沸かし器のスイッチを入れ、お風呂が自動で溜まるように設定した。
さらに、脱衣所のカゴには、洗濯したてのフカフカのバスタオルと、新調したばかりの清潔な部屋着をセットする。
「サナ、お風呂が沸いたよ。脱衣所にタオルと着替えを置いておいたからね」
ククイは廊下に向かって声をかけた。
「今から俺は、庭の剪定(せんてい)に出てくる。サナがお風呂から上がって部屋に戻るまで、絶対に研究所の中には戻らない。完全に誰もいないから、安心してゆっくり温まっておいで」
ガタ、とククイが勝手口を開けて外へ出る音が響く。
そして、パタンとドアが閉まり、完全に家の中から「人の気配」が消え失せた。
研究所の中には、お風呂が沸いたことを知らせる微かな電子音だけが響いている。
誰もいない、自由な空間
(……本当に、誰もいない?)
サナは恐る恐る、自室のドアを少しだけ開けた。
いつもならどこからか聞こえるガオガエンのいびきも、イワンコの足音も、博士の書類をめくる音も、本当に何一つ聞こえない。
しんと静まり返ったリビング。そこは今、サナのためだけに用意された『絶対領域』だった。
サナは自分の身体を抱きしめるようにして、早足で洗面所へと向かった。
脱衣所の鍵をしっかりと閉め、服を脱ぎ捨てる。鏡に映る自分の顔はひどくやつれていたけれど、浴槽から立ち上る真っ白な湯気を見た瞬間、張り詰めていた心の強張りが、ふっと解けるのが分かった。
お湯に身体を沈めると、数日分の汗と、心の澱(おり)が、温かいお湯の中に溶け出していくようだった。
髪を洗い、身体を洗い、清潔な石鹸の香りに包まれる。
誰の目も気にしなくていい、誰の手にも触れられない、完全な孤独と安全。その時間が、今のサナにとってはどんな薬よりも必要だった。
庭先で見守る大人
その頃、ククイは夜の帳が下り始めた庭で、ハサミを片手に木々の枝をパチパチと落としていた。
手元の端末で、リビングと廊下の監視カメラの映像を時折確認する。
当然、脱衣所の中にカメラはない。ククイが見ているのは、サナが廊下を通って洗面所に入り、そして再び部屋に戻るまでの「動線」だけだ。
「……よし、入ったな」
サナが洗面所に駆け込む姿を画面の端に確認し、ククイはホッと胸を撫で下ろした。
お風呂に入りたいと思えるくらいには、体力が回復してきた証拠だ。彼女の「綺麗になりたい」という当然の尊厳を守れたことに、ククイは深い安堵を覚える。
それから約40分後。
お風呂から上がり、フカフカのパジャマに身を包んだサナが、湯上がりの温かい肌のまま、自分の部屋へと小走りで戻っていく姿が画面に映し出された。
カチャリ、と自室の鍵が閉まる音が、端末の音声から微かに聞こえる。
「作戦成功、だな」
ククイはハサミを置き、夜のアローラの風を浴びながら、ようやく大きく息を吐いた。
家の中に戻ると、洗面所からはほんのりと、サナが使った石鹸の優しい香りが漂っていた。
サナの部屋のドアの隙間から、一枚の紙がすっと差し出される。
『おふろ、とっても気持ちよかったです。わがままをきいてくれて、ありがとうございました』
その文字を見たククイは、静かに微笑んだ。
「どういたしまして。さっぱりして良かったな、サナ」
直接手を引いて連れて行くことはできなくても。
彼女の絶対領域を守り、適切な距離から支えることで、サナの心は少しずつ、確実に癒やされ始めていた。
心も身体も限界だったサナは、何日もまともにお風呂に入ることができていなかった。
ふと布団の中で自分の腕の匂いを嗅いだとき、ツンとする汗の、あからさまな「体臭」が鼻を突いた。女の子として、その事実はサナの心をひどく傷つけ、惨めな気持ちにさせた。
汚い。臭い。こんな状態で、博士やポケモンたちのいるリビングの近くを通るなんて、恥ずかしくて死んでしまいたかった。
けれど、これ以上放置すれば、本当に身体が病気になってしまう。
サナは震える指先で、文字を綴った。
いつもよりさらに小さく、消え入りそうな文字だった。
『おふろに、入りたいです。でも、だれにも、すがたを見られたくないです。お願いです、だれとも会わないように、おねがいします』
その紙がドアの隙間からすっと差し出されたとき、ククイ博士はすぐにその意図を察した。
女の子のプライドを傷つけないよう、その文字を読んでも表情ひとつ変えず、深く、頼もしく頷いてみせる。
「分かった。サナ、全部俺に任せておけ!」
ククイはすぐに白衣の袖をまくり上げ、リビングにいる相棒たちに向き直った。
完璧な「絶対領域」の構築
「ガオガエン、イワンコ、ウォーグル。緊急事態だ」
ククイは声を潜め、真剣な眼差しでポケモンたちを見つめた。
「今からサナがお風呂に入る。部屋から脱衣所までのルートに、1ミリの死角も、1つの視線も存在しちゃいけない。……みんな、奥の寝室へ移動して、サナが部屋に戻るまで絶対に鍵を開けないで待っていてくれ」
ククイの強い口調に、ポケモンたちは事の重大さを察した。
ガオガエンは力強く頷くと、イワンコをそっと促し、ウォーグルと共にククイの奥の寝室へと静かに大移動を開始した。ガチャリと寝室のドアが閉まり、完全に鍵がかけられる。これで、ポケモンたちとサナが鉢合わせる可能性はゼロになった。
(よし……次は俺の番だな)
ククイはリビングの時計を見た。
サナが移動する間、自分も彼女の視界に入ってはならない。
ククイは洗面所の湯沸かし器のスイッチを入れ、お風呂が自動で溜まるように設定した。
さらに、脱衣所のカゴには、洗濯したてのフカフカのバスタオルと、新調したばかりの清潔な部屋着をセットする。
「サナ、お風呂が沸いたよ。脱衣所にタオルと着替えを置いておいたからね」
ククイは廊下に向かって声をかけた。
「今から俺は、庭の剪定(せんてい)に出てくる。サナがお風呂から上がって部屋に戻るまで、絶対に研究所の中には戻らない。完全に誰もいないから、安心してゆっくり温まっておいで」
ガタ、とククイが勝手口を開けて外へ出る音が響く。
そして、パタンとドアが閉まり、完全に家の中から「人の気配」が消え失せた。
研究所の中には、お風呂が沸いたことを知らせる微かな電子音だけが響いている。
誰もいない、自由な空間
(……本当に、誰もいない?)
サナは恐る恐る、自室のドアを少しだけ開けた。
いつもならどこからか聞こえるガオガエンのいびきも、イワンコの足音も、博士の書類をめくる音も、本当に何一つ聞こえない。
しんと静まり返ったリビング。そこは今、サナのためだけに用意された『絶対領域』だった。
サナは自分の身体を抱きしめるようにして、早足で洗面所へと向かった。
脱衣所の鍵をしっかりと閉め、服を脱ぎ捨てる。鏡に映る自分の顔はひどくやつれていたけれど、浴槽から立ち上る真っ白な湯気を見た瞬間、張り詰めていた心の強張りが、ふっと解けるのが分かった。
お湯に身体を沈めると、数日分の汗と、心の澱(おり)が、温かいお湯の中に溶け出していくようだった。
髪を洗い、身体を洗い、清潔な石鹸の香りに包まれる。
誰の目も気にしなくていい、誰の手にも触れられない、完全な孤独と安全。その時間が、今のサナにとってはどんな薬よりも必要だった。
庭先で見守る大人
その頃、ククイは夜の帳が下り始めた庭で、ハサミを片手に木々の枝をパチパチと落としていた。
手元の端末で、リビングと廊下の監視カメラの映像を時折確認する。
当然、脱衣所の中にカメラはない。ククイが見ているのは、サナが廊下を通って洗面所に入り、そして再び部屋に戻るまでの「動線」だけだ。
「……よし、入ったな」
サナが洗面所に駆け込む姿を画面の端に確認し、ククイはホッと胸を撫で下ろした。
お風呂に入りたいと思えるくらいには、体力が回復してきた証拠だ。彼女の「綺麗になりたい」という当然の尊厳を守れたことに、ククイは深い安堵を覚える。
それから約40分後。
お風呂から上がり、フカフカのパジャマに身を包んだサナが、湯上がりの温かい肌のまま、自分の部屋へと小走りで戻っていく姿が画面に映し出された。
カチャリ、と自室の鍵が閉まる音が、端末の音声から微かに聞こえる。
「作戦成功、だな」
ククイはハサミを置き、夜のアローラの風を浴びながら、ようやく大きく息を吐いた。
家の中に戻ると、洗面所からはほんのりと、サナが使った石鹸の優しい香りが漂っていた。
サナの部屋のドアの隙間から、一枚の紙がすっと差し出される。
『おふろ、とっても気持ちよかったです。わがままをきいてくれて、ありがとうございました』
その文字を見たククイは、静かに微笑んだ。
「どういたしまして。さっぱりして良かったな、サナ」
直接手を引いて連れて行くことはできなくても。
彼女の絶対領域を守り、適切な距離から支えることで、サナの心は少しずつ、確実に癒やされ始めていた。