人見知りのサナの話
サナが自分の部屋のドアを少しだけ開け、廊下に向かって小さなノートを差し出したのは、ある日の夕方のことだった。
ククイ博士がそれを受け取ると、そこには震える文字で、けれど確かにこう書かれていた。
『人に触れる練習がしたいです。でも、動かれるのも、見られるのも、まだ怖いです』
その文字を見たとき、ククイはサナの必死の覚悟を感じ取り、胸の奥が熱くなるのを覚えた。
あの日、自分の手が触れたことで彼女を激しく嘔吐させてしまった。あのトラウマを、サナは自分の力で乗り越えようとしている。
ククイはすぐにペンを走らせ、サナに見えるようにノートを掲げた。
『わかった。リビングで待ってる。俺は絶対に動かないし、目も開けない。「ただの丸太」だと思ってくれていいぜ』
ククイはポケモンたちに静かに目配せをし、全員を庭へと出させた。リビングにサナを脅かす要素を一切なくすためだ。
そしてククイは、リビングの床の真ん中に、そのまま大の字になって寝転んだ。
カチリ、と硬く目を閉じる。
両手は身体の横に置き、指先ひとつ動かさない。呼吸もできるだけ静かに、深く繰り返す。衣服の擦れる音さえ立てないよう、ただの肉体という名の「障害物」になりきった。
しばらくの静寂のあと、ギィ……と、サナの部屋のドアが開く音が響いた。
サナは、這い出るようにしてゆっくりとリビングへ歩み進めていた。
床に横たわる、ククイ博士の大きな身体。カントーにいた頃からサナを苦しめてきた「大人の男」の象徴が、そこにある。
(……大丈夫。博士は、動かない。目も、開けない)
自分に何度も言い聞かせながら、サナは床に膝をつき、息を潜めてククイを観察し始めた。
本当に、ピクリとも動かない。
男の人の鋭い視線も、自分を値踏みするような動きも、そこには何ひとつない。
サナは少しずつ、本当に少しずつ、膝立ちのまま距離を詰めていった。
一メートル。五十センチ。
近づくにつれて、ククイの身体から発せられる、アローラの太陽のような高い体温がサナの肌に伝わってくる。服の隙間から見える首筋の皮膚、大きくてゴツゴツとした、かつて自分に触れたあの掌。
(……触りたい。触って、夢みたいに、普通になりたい)
サナはゆっくりと、自分の右手を伸ばした。
指先が震える。あと数センチで、ククイの白衣の袖に触れる――というところで、サナの脳裏にあの日の感覚が過り、身体が恐怖でキュッと強張った。
やっぱり、まだ怖い。
もし今、博士が急に目を開けたら? もし動いたら?
想像しただけで喉の奥がキュッと締まり、サナは伸ばした手を、自分の胸元へと引っ込めてしまった。
今日のサナには、まだククイに触れるだけの勇気は出せなかった。
だけど、サナは逃げるように部屋に戻ることはしなかった。
動かないククイの傍らで、サナはじっとその温かい体温を感じながら、しばらくその場に佇んでいた。
見られず、拒絶もされず、ただそこに「人間」がいて、自分がそのすぐ近くにいる。その事実を、からっぽだった心にじっくりと染み込ませるように。
気が済んだのか、サナは足音を立てずに立ち上がり、静かに自分の部屋へと戻っていった。
バタン、とドアが閉まる優しい音が響く。
その音を聞いて初めて、ククイはゆっくりと目を開け、身体を起こした。
「……ふぅ」
大きく息を吐き出し、自分の掌を見つめる。
触れられることはなかった。けれど、ククイの顔に落胆の色は一切なかった。それどころか、愛おしそうにサナの部屋のドアを見つめ、静かに微笑んだ。
(よく頑張ったな、サナ。すぐ側まで来られたじゃないか)
初日には近づくことさえできず、向けられた背中に触れられただけで拒絶の嘔吐をしてしまった少女が、今日は自らの足で、ここまで近づいてきてくれた。
触れられなくたって構わない。この数歩の距離の短縮こそが、サナにとっての、人生を変える大きな第一歩だった。
ククイは立ち上がり、サナを刺激しないよう、再び静かに自分の仕事へと戻っていった。アローラののどかな夕暮れの中、二人の距離は、ほんの少しだけ、確かに縮まっていた。
ククイ博士がそれを受け取ると、そこには震える文字で、けれど確かにこう書かれていた。
『人に触れる練習がしたいです。でも、動かれるのも、見られるのも、まだ怖いです』
その文字を見たとき、ククイはサナの必死の覚悟を感じ取り、胸の奥が熱くなるのを覚えた。
あの日、自分の手が触れたことで彼女を激しく嘔吐させてしまった。あのトラウマを、サナは自分の力で乗り越えようとしている。
ククイはすぐにペンを走らせ、サナに見えるようにノートを掲げた。
『わかった。リビングで待ってる。俺は絶対に動かないし、目も開けない。「ただの丸太」だと思ってくれていいぜ』
ククイはポケモンたちに静かに目配せをし、全員を庭へと出させた。リビングにサナを脅かす要素を一切なくすためだ。
そしてククイは、リビングの床の真ん中に、そのまま大の字になって寝転んだ。
カチリ、と硬く目を閉じる。
両手は身体の横に置き、指先ひとつ動かさない。呼吸もできるだけ静かに、深く繰り返す。衣服の擦れる音さえ立てないよう、ただの肉体という名の「障害物」になりきった。
しばらくの静寂のあと、ギィ……と、サナの部屋のドアが開く音が響いた。
サナは、這い出るようにしてゆっくりとリビングへ歩み進めていた。
床に横たわる、ククイ博士の大きな身体。カントーにいた頃からサナを苦しめてきた「大人の男」の象徴が、そこにある。
(……大丈夫。博士は、動かない。目も、開けない)
自分に何度も言い聞かせながら、サナは床に膝をつき、息を潜めてククイを観察し始めた。
本当に、ピクリとも動かない。
男の人の鋭い視線も、自分を値踏みするような動きも、そこには何ひとつない。
サナは少しずつ、本当に少しずつ、膝立ちのまま距離を詰めていった。
一メートル。五十センチ。
近づくにつれて、ククイの身体から発せられる、アローラの太陽のような高い体温がサナの肌に伝わってくる。服の隙間から見える首筋の皮膚、大きくてゴツゴツとした、かつて自分に触れたあの掌。
(……触りたい。触って、夢みたいに、普通になりたい)
サナはゆっくりと、自分の右手を伸ばした。
指先が震える。あと数センチで、ククイの白衣の袖に触れる――というところで、サナの脳裏にあの日の感覚が過り、身体が恐怖でキュッと強張った。
やっぱり、まだ怖い。
もし今、博士が急に目を開けたら? もし動いたら?
想像しただけで喉の奥がキュッと締まり、サナは伸ばした手を、自分の胸元へと引っ込めてしまった。
今日のサナには、まだククイに触れるだけの勇気は出せなかった。
だけど、サナは逃げるように部屋に戻ることはしなかった。
動かないククイの傍らで、サナはじっとその温かい体温を感じながら、しばらくその場に佇んでいた。
見られず、拒絶もされず、ただそこに「人間」がいて、自分がそのすぐ近くにいる。その事実を、からっぽだった心にじっくりと染み込ませるように。
気が済んだのか、サナは足音を立てずに立ち上がり、静かに自分の部屋へと戻っていった。
バタン、とドアが閉まる優しい音が響く。
その音を聞いて初めて、ククイはゆっくりと目を開け、身体を起こした。
「……ふぅ」
大きく息を吐き出し、自分の掌を見つめる。
触れられることはなかった。けれど、ククイの顔に落胆の色は一切なかった。それどころか、愛おしそうにサナの部屋のドアを見つめ、静かに微笑んだ。
(よく頑張ったな、サナ。すぐ側まで来られたじゃないか)
初日には近づくことさえできず、向けられた背中に触れられただけで拒絶の嘔吐をしてしまった少女が、今日は自らの足で、ここまで近づいてきてくれた。
触れられなくたって構わない。この数歩の距離の短縮こそが、サナにとっての、人生を変える大きな第一歩だった。
ククイは立ち上がり、サナを刺激しないよう、再び静かに自分の仕事へと戻っていった。アローラののどかな夕暮れの中、二人の距離は、ほんの少しだけ、確かに縮まっていた。