人見知りのサナの話

その夢の中のサナは、信じられないほど軽やかに笑っていた。
彼女の手は、ククイ博士の大きくて温かい手を、なんの躊躇もなくぎゅっと握りしめていた。博士がいつも通りの快活な笑顔を向けると、サナもその眩しい目を真っ正面から見つめ返し、楽しそうに笑い合っている。
一歩外に出れば、そこには青い空と輝く海が広がっていた。
通りすがりの知らない人と目が合っても、恐怖で心臓が跳ね上がることはない。「こんにちは!」と元気に挨拶を交わし、お店に立ち寄って自分の言葉で流暢に買い物をし、美味しそうなアローラのスイーツを食べて、弾むような声で感想を話している。
どこへ行くのも自由。誰と話すのも自由。
『視線』は優しく自分を包む光でしかなく、声は当たり前のように喉から溢れ出てくる。
そこには、自分を縛り付ける透明な鎖なんて、どこにも存在しなかった。
(あぁ、楽しいな――)
そう思った瞬間。
深い闇の底から引き揚げられるように、唐突に、視界が真っ白な天井に切り替わった。
「――っ、」
サナは跳ね起きるようにして、ベッドの中で目を見開いた。
自分の部屋。静まり返った空気。薄暗い空間。
夢の余韻で一瞬だけ動こうとした身体は、いつものように鉛のように重く、寝返りを打つことさえ躊躇われるほどに強張っている。
(夢……だった)
現実が、容赦なくサナの全身にのしかかってきた。
夢の中の自分はあんなに自由だったのに、今の自分は、ベッドから起き上がることすら満足にできない。
夢の中ではククイ博士の手を握りしめていたのに、現実の自分は、博士に背中をさすられただけで激しく嘔吐し、拒絶してしまった。
夢の中では街の人と笑い合っていたのに、現実の自分は、テレビの画面に映った人間の目を見ただけで、喉をかきむしって泣き叫ぶことしかできない。
どうして。どうして私は、あんな当たり前のことができないんだろう。
「……ぁ、……っ、……ぅ」
声を出そうとしても、喉の奥が引き攣って、また掠れた空気の音しか出てこない。
夢と現実の、あまりにも残酷なギャップ。
普通に生きられない自分が、ただただ辛くて、情けなくて、不甲斐ない。変わりたいと願うことすらおこがましいような、深い深い絶望の沼が、サナの心を満たしていく。
「……ぅ、あ……ううっ……」
サナは枕に顔を押し付け、声を殺して泣き出した。
涙を流しても、この身体の鎖は外れない。どうして自分はこんな風に生まれてきてしまったのか。なぜ、あんな幸せな夢を見てしまったのか。戻れない現実の冷たさに、サナはただ身体を丸めて震え続けるしかなかった。
ドアの向こうで、サナの微かな泣き声に気づいたイワンコが、ハッと耳を立てる。
ガオガエンも静かに目を覚まし、悲痛な面持ちで、閉ざされた木目のドアを見つめた。
彼らは、サナが今、自分の心の中でどんな怪物と戦い、どれほど傷ついているのかを知る由もない。
ただ、サナを一人きりにしないために。
ガオガエンは今日も静かに、触れない優しさの音を、トントン、とドアの向こうから送り始めることしかできなかった。
サナは、涙で濡れた枕からゆっくりと顔を上げた。
胸の奥に澱(おり)のように溜まった絶望は、彼女を部屋に閉じ込める気力さえも奪っていた。ただ、この苦しさを誰かに、あの優しい大人にだけは聞いてほしかった。
震える足で部屋を出て、リビングへと向かう。
キッチンにいたククイ博士は、サナのただごとではない様子にすぐさま気づき、手元のアクションをすべて止めた。
「サナ……」
ククイはそれ以上近づかず、サナを驚かせない距離を保ったまま、静かにその場に腰を落とした。サナは床に視線を落としたまま、近くの壁に背を預けてずるずると膝を抱え込む。
まだ喉はヒリヒリと痛む。テレビのパニックのせいで、また声が出なくなっているかもしれない。
それでも、サナは消え入りそうな、掠れた声を絞り出した。
「……ゆめを、みました……」
「夢……かい?」
ククイの声は、どこまでも静かで、波一つないアローラの夜の海のようだった。サナを急かすことも、否定することもしない。
「……夢の中の私は、なんでもできて……。博士の、手を、握って……ちゃんと、目を見て、笑ってました……」
サナの目から、再び大粒の涙がポロポロと床に落ちていく。
「お外に出て……知らない人にも、こんにちはって言えて……。お買い物も、おしゃべりも、普通に……普通の人みたいに、自由に、できてたんです……」
そこまで一気に話すと、サナの喉がひゅっと鳴り、呼吸が浅くなった。夢の中の自分の眩しさを口にすることが、今の自分をさらに深く突き刺していく。
「なのに、目が覚めたら……っ、私は、ここにいて……。博士に触られるだけで、気持ち悪くなって吐いちゃって……テレビの人を見るだけでも、おかしくなって……っ」
膝を抱える腕に、ぎゅっと力がこもる。
「……もう、むりかもしれない……」
サナの口から、最悪の諦めが言葉となって溢れ出た。
「どんなにがんばっても、私のこころは、壊れたままで……。普通に、なれない……。変わりたいなんて、思っちゃダメだったんだ……。もう、がんばれないよ……っ」
それは、サナが初めてククイに吐き出した、本当の、剥き出しの弱音だった。
ククイは、サナの言葉を遮ることなく、最後までじっと聴いていた。
彼女が抱える「夢と現実のギャップ」の残酷さに、ククイの胸も締め付けられるように痛む。良かれと思ってした自分の行動が、彼女にどれほどの絶望を自覚させてしまったのか。
けれど、ククイの瞳に諦めの色はなかった。
「……サナ」
ククイは、彼女の防衛ラインを侵さないよう、絶対に身体には触れなかった。ただ、床に置いた自分の大きな手の平を、サナのほうへとそっと向けた。
「辛かったな。教えてくれて、ありがとう」
博士の、低くて温かい声がリビングに響く。
「夢の中でできたことはね、サナ、それは『いつか本当にできるようになること』なんだよ。君の心が、本当はそうなりたいって、ちゃんと未来を覚えている証拠さ」
「……っ……でも……!」
「今すぐじゃなくていいんだ」
ククイは優しく微笑んだ。
「普通になんて、ならなくていい。明日起き上がれなくたって、また声が出なくなったって、俺は君に呆れたりしないぜ。サナが『もう無理だ』って膝を抱えるなら、俺もみんなも、君がまた前を向きたくなるまで、ずーっとここで一緒に待つだけさ」
リビングの影から、ガオガエンがそっと大きな背中をサナに向けた。
イワンコも、机の陰から静かにサナの足元を見守っている。
「がんばらなくていい。ただ、ここにいてくれ。それだけで十分なんだよ」
触れない、見つめない。だけど、絶対に孤独にはさせない。
博士のどこまでも真摯な言葉に、サナは膝に顔を埋めたまま、小さな子供のように声を上げて泣き続けた。現実の壁はまだ高くて分厚いけれど、その夜、サナの絶望の底には、確かに小さな、静かな温もりが添えられていた。
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