人見知りのサナの話
「自分の存在を、この世から消してしまいたい」
サナの切実すぎるその願いは、日々のささやかな生活の音さえも縛り付けていた。
足音を立てないように歩くのはもちろんのこと、自室のベッドの中でさえ、シーツが擦れる音や、寝返りを打つ「衣擦れの音」を立てるのを極端に嫌がった。
「私はここにいません。だから、見つけないで、見ないで」
そうやって息を潜め、何時間も同じ姿勢で硬直しているサナの身体は、限界を迎えていた。
ただでさえ細い身体は、まるで岩のようにバキバキに凝り固まり、時折、痛む節々を庇うように小さく顔をしかめている。
(このままじゃ、ストレスと血行不良で身体が悲鳴を上げてしまう……。少しでも楽にさせてやりたい)
ククイはリビングのデスクで、腕を組んで深く考え込んでいた。
マッサージをして、強張った筋肉を解してやりたい。それは一人の保護者としても切実な願いだった。
けれど、初日のあの光景が頭をよぎる。良かれと思って背中に触れた瞬間、サナが激しく嘔吐し、恐怖に狂ったあの凄惨な記憶。
大人の男である自分が直接触れることは、絶対にできない。それは治療ではなく、彼女への「襲撃」になってしまう。
(俺の皮膚がダメなら……何かを介せばどうだ? いや、それでも『他人に触られている』という意識そのものがサナをパニックに陥らせる)
ククイはペンを指先で回しながら、ホワイトボードにいくつかの条件を書き殴った。
ククイ(人間の男)が直接触れないこと。
「誰かに触られている」という不意の恐怖(視線や気配)を与えないこと。
サナ自身が「自分の意思で、いつでも止められる」状態であること。
「……これなら、どうだ」
ククイの目が留まったのは、アローラの温暖な気候が育んだ自然の恵みと、ある「道具」の組み合わせだった。
触れないマッサージ
その日の夕方、ククイはサナの部屋の前に、そっと『あるセット』を置いて、静かに声をかけた。
「サナ、アローラ。お部屋の前に、ちょっとした温まるものを置いておくよ。……君の身体が少しでも軽くなるといいんだが。使い方の紙も挟んでおくから、気が向いたら試してみてくれ」
博士の足音が遠ざかり、完全に静寂が戻ったのを見計らって、サナはゆっくりとドアを開けた。
そこには、丁寧に磨かれた、手のひらサイズの滑らかな『温熱ストーン(アローラの火山岩)』と、数滴で部屋中を南国の優しい香りで満たす『すくすくハーブのオイル』。そして、ククイが図解した手書きのノートが置かれていた。
ノートには、ククイの優しい文字が躍っていた。
『サナ、寝返りもうてないくらい、身体が痛むんだろ。
これは、君自身が自分の手で使うための道具だ。
俺も、ポケモンたちも、誰も君の部屋には入らないし、見もしない。
その温かい石を、オイルを少し塗った自分の肩や、首の後ろ、腰のあたりに、自分で押し当てて、ゆっくり転がしてごらん。
自分で強さを調節していいし、嫌ならいつでも床に放り投げていい。
石の重みと温かさが、君の代わりに、硬くなった身体をほぐしてくれるはずだぜ』
サナは、そのノートをじっと見つめた。
誰かに触られるのではない。
自分が、自分の部屋で、自分の手で、痛い場所に石を当てるだけ。
これなら、誰も私の領域を侵さない。誰も私を見ない。
サナはおずおずと、まだほんのり温かい火山岩を手に取った。
ずっしりとした心地いい重み。ハーブのオイルを数滴、強張ったデコルテや首筋に馴染ませ、その上から温かい石をそっと滑らせてみる。
「……あ、」
じわぁ……と、氷のようだった皮膚の奥に、アローラの地熱が溶け込んでいくような感覚がした。
自分で力を込めると、バキバキに固まっていた筋膜が、ゴリゴリと心地よく解されていく。痛いけれど、気持ちいい。何より、「自分でコントロールできる」という絶対的な安心感があった。
扉の向こうの、もうひとつの工夫
サナが自室でセルフマッサージを始めている頃、ククイはリビングで別の「配慮」を施していた。
サナが自分の身体をマッサージするとき、どうしても衣擦れの音や、石が擦れる音が立ってしまう。サナは「音が外に漏れること」を極端に恐れるはずだ。
だから、ククイはリビングのスピーカーから、アローラの波の音を録音した環境音楽を、少しだけ大きめの音量で流し始めた。
ザザァン、ザザァン……という心地いい自然の音が、研究所を満たす。
(これで、サナが部屋でどんな音を立てても、外には一切聞こえない。サナ、安心して身体を動かしてくれ)
ククイはテレビの横で、ガオガエンの頭をぽんと叩いた。
ガオガエンも、その波の音に合わせて、いつもより少し大きな足音を立てて歩いたり、わざとらしく「ふんっ」と鼻を鳴らしたりしている。サナの物音を、自分たちの生活音で完全に掻き消して守るための、彼らなりの連携だった。
部屋の中で、波の音を聴きながら、温かい石で身体をほぐしていくサナ。
血行が良くなるにつれて、ガチガチだった肩がすうっと軽くなり、数日ぶりに、深く、長い呼吸を吸い込むことができた。
直接抱きしめることはできない。
けれど、大人の男の知恵と、ポケモンたちの不器用な優しさは、扉を一枚隔てたまま、サナの硬く閉ざされた身体と心を、確かに柔らかく解きほぐしていった。
サナの切実すぎるその願いは、日々のささやかな生活の音さえも縛り付けていた。
足音を立てないように歩くのはもちろんのこと、自室のベッドの中でさえ、シーツが擦れる音や、寝返りを打つ「衣擦れの音」を立てるのを極端に嫌がった。
「私はここにいません。だから、見つけないで、見ないで」
そうやって息を潜め、何時間も同じ姿勢で硬直しているサナの身体は、限界を迎えていた。
ただでさえ細い身体は、まるで岩のようにバキバキに凝り固まり、時折、痛む節々を庇うように小さく顔をしかめている。
(このままじゃ、ストレスと血行不良で身体が悲鳴を上げてしまう……。少しでも楽にさせてやりたい)
ククイはリビングのデスクで、腕を組んで深く考え込んでいた。
マッサージをして、強張った筋肉を解してやりたい。それは一人の保護者としても切実な願いだった。
けれど、初日のあの光景が頭をよぎる。良かれと思って背中に触れた瞬間、サナが激しく嘔吐し、恐怖に狂ったあの凄惨な記憶。
大人の男である自分が直接触れることは、絶対にできない。それは治療ではなく、彼女への「襲撃」になってしまう。
(俺の皮膚がダメなら……何かを介せばどうだ? いや、それでも『他人に触られている』という意識そのものがサナをパニックに陥らせる)
ククイはペンを指先で回しながら、ホワイトボードにいくつかの条件を書き殴った。
ククイ(人間の男)が直接触れないこと。
「誰かに触られている」という不意の恐怖(視線や気配)を与えないこと。
サナ自身が「自分の意思で、いつでも止められる」状態であること。
「……これなら、どうだ」
ククイの目が留まったのは、アローラの温暖な気候が育んだ自然の恵みと、ある「道具」の組み合わせだった。
触れないマッサージ
その日の夕方、ククイはサナの部屋の前に、そっと『あるセット』を置いて、静かに声をかけた。
「サナ、アローラ。お部屋の前に、ちょっとした温まるものを置いておくよ。……君の身体が少しでも軽くなるといいんだが。使い方の紙も挟んでおくから、気が向いたら試してみてくれ」
博士の足音が遠ざかり、完全に静寂が戻ったのを見計らって、サナはゆっくりとドアを開けた。
そこには、丁寧に磨かれた、手のひらサイズの滑らかな『温熱ストーン(アローラの火山岩)』と、数滴で部屋中を南国の優しい香りで満たす『すくすくハーブのオイル』。そして、ククイが図解した手書きのノートが置かれていた。
ノートには、ククイの優しい文字が躍っていた。
『サナ、寝返りもうてないくらい、身体が痛むんだろ。
これは、君自身が自分の手で使うための道具だ。
俺も、ポケモンたちも、誰も君の部屋には入らないし、見もしない。
その温かい石を、オイルを少し塗った自分の肩や、首の後ろ、腰のあたりに、自分で押し当てて、ゆっくり転がしてごらん。
自分で強さを調節していいし、嫌ならいつでも床に放り投げていい。
石の重みと温かさが、君の代わりに、硬くなった身体をほぐしてくれるはずだぜ』
サナは、そのノートをじっと見つめた。
誰かに触られるのではない。
自分が、自分の部屋で、自分の手で、痛い場所に石を当てるだけ。
これなら、誰も私の領域を侵さない。誰も私を見ない。
サナはおずおずと、まだほんのり温かい火山岩を手に取った。
ずっしりとした心地いい重み。ハーブのオイルを数滴、強張ったデコルテや首筋に馴染ませ、その上から温かい石をそっと滑らせてみる。
「……あ、」
じわぁ……と、氷のようだった皮膚の奥に、アローラの地熱が溶け込んでいくような感覚がした。
自分で力を込めると、バキバキに固まっていた筋膜が、ゴリゴリと心地よく解されていく。痛いけれど、気持ちいい。何より、「自分でコントロールできる」という絶対的な安心感があった。
扉の向こうの、もうひとつの工夫
サナが自室でセルフマッサージを始めている頃、ククイはリビングで別の「配慮」を施していた。
サナが自分の身体をマッサージするとき、どうしても衣擦れの音や、石が擦れる音が立ってしまう。サナは「音が外に漏れること」を極端に恐れるはずだ。
だから、ククイはリビングのスピーカーから、アローラの波の音を録音した環境音楽を、少しだけ大きめの音量で流し始めた。
ザザァン、ザザァン……という心地いい自然の音が、研究所を満たす。
(これで、サナが部屋でどんな音を立てても、外には一切聞こえない。サナ、安心して身体を動かしてくれ)
ククイはテレビの横で、ガオガエンの頭をぽんと叩いた。
ガオガエンも、その波の音に合わせて、いつもより少し大きな足音を立てて歩いたり、わざとらしく「ふんっ」と鼻を鳴らしたりしている。サナの物音を、自分たちの生活音で完全に掻き消して守るための、彼らなりの連携だった。
部屋の中で、波の音を聴きながら、温かい石で身体をほぐしていくサナ。
血行が良くなるにつれて、ガチガチだった肩がすうっと軽くなり、数日ぶりに、深く、長い呼吸を吸い込むことができた。
直接抱きしめることはできない。
けれど、大人の男の知恵と、ポケモンたちの不器用な優しさは、扉を一枚隔てたまま、サナの硬く閉ざされた身体と心を、確かに柔らかく解きほぐしていった。