人見知りのサナの話

ガオガエンにとって、それは本当に「たった少しの油断」だった。
いつもなら、サナの足音が聞こえた瞬間に世界で一番大仰な寝たふりをするか、これ以上ないほど不自然に窓の外を眺めて背中を向けるのが、研究所のポケモンたちの鉄則だった。
けれどその時、ガオガエンはククイ博士から貰った木の実を食べることにほんの少しだけ夢中になっていたのだ。
コリッ、と小気味いい音がリビングに響く。
美味しいな、と満足感に浸りながら、ガオガエンは何気なく顔を上げた。
――ガチャリ。
運悪く、その瞬間にリビングのドアが開いた。
いつもなら、ドアが開く前に気配を察知して動くはずのガオガエンだったが、タイミングが悪すぎた。
顔を上げたガオガエンの視線と、部屋に入ってきたサナの視線が、空間の真ん中で真っ正面から衝突した。
「――あ、」
ガオガエンの動きが完全に固まる。
やってしまった、と頭の中が真っ白になった。悪意なんてこれっぽっちもない。品定めするつもりも、脅すつもりもなかった。ただ、ほんの少しの不注意で、その大きな黄色い瞳が、サナの怯える瞳を真っ直ぐに捉えてしまった。
サナの表情が、見る見るうちに恐怖に染まっていく。
ストレスから声が出なくなっていたはずのサナの喉が、極限のパニックによって無理やり抉り開けられた。
「――いやあああああああああああッ!!!」
リビングの空気を引き裂くような、凄まじい悲鳴だった。
声が出ないはずの喉から、血を吐くような大声が迸る。それは言葉にならない、剥き出しの恐怖の叫びだった。
「う、あ、ああああん!!! いやぁあ!!」
サナはその場にへたり込み、耳を塞いで、子供のように大声で泣き叫び始めた。ボロボロと大粒の涙が溢れ、全身を激しく痙攣させて拒絶する。見られた、見られた、あの大きな怪物に、私の全部を見透かされて、笑われて、怒られる――そんな狂気的な被害妄想が、サナの頭を支配していた。
「ガ、ガオ……っ!?」
ガオガエンは、自分がサナに与えてしまったショックの大きさに、凄まじい衝撃を受けていた。
大柄な身体をこれ以上ないほど小さく縮め、耳を後ろに限界まで寝かせ、どうしていいか分からず完全に狼狽してしまう。自分が悪かった。自分の油断のせいで、せっかく少しずつ落ち着きを取り戻していたサナを、こんなにも追い詰めてしまった。
「サナ……! ガオガエン、何があった!?」
悲鳴を聞きつけたククイ博士が、血相を変えて奥の部屋から飛び出してきた。
床に突っ伏して絶叫に近い声を上げながら泣き叫ぶサナと、その側で、今にも消えてしまいそうなほどショックを受けて佇んでいるガオガエン。その光景だけで、博士はすべてを察した。
「ガオガエン、下がれ! お前のせいじゃない、でも今は離れるんだ!」
「ガ、ガオ……」
ガオガエンは悲しげに喉を鳴らし、自分の大きな、凶悪に見えてしまう両手を見つめたあと、逃げるようにリビングの隅へと引き下がった。その背中は、いつもプロレスラーのように堂々としている姿からは想像もつかないほど、小さく丸まっていた。
「サナ、大丈夫だ、誰もいない! 誰も君を見ていないよ!」
ククイ博士はサナを安心させるように、背後から包み込むように強く抱きしめた。
「いや、いやぁあ!」と暴れるサナの細い身体を、決して離さないように、けれど痛くさせないように絶妙な力加減でホールドする。
「大丈夫、大丈夫だ、サナ。俺だ、ククイだ。誰も怒っていない。ガオガエンは向こうへ行ったよ。ここでは誰も君を責めない……!」
博士は何度も、何度も同じ言葉を耳元で 囁き続けた。
暴れるサナの爪が博士の腕を引っ掻き、白衣に血が滲んでも、博士は顔色ひとつ変えずにサナを抱きしめ、その背中を大きな手でさすり続けた。
どれだけの時間が経っただろう。
喉を枯らすほどに泣き叫んだサナの身体から、ようやく全ての力が抜け、博士の胸の中で「ひっく、ひっく」と小さく震えるだけになった。声を出しすぎた喉は完全に潰れ、もう掠れた息の音しか聞こえない。
サナは疲れ果ててそのまま意識を失うように眠り込んでしまった。
ククイ博士は、サナをそっとソファへ横たわらせ、毛布を優しくかける。
そして、静まり返ったリビングの隅に視線を向けた。
そこには、暗がりに顔を伏せ、微かに肩を震わせているガオガエンの姿があった。サナを傷つけてしまったという罪悪感と、自分の「目」が彼女を恐怖に陥れてしまったという事実が、この心優しいポケモンの心を深く、深く傷つけていた。
ククイ博士は静かに歩み寄り、ガオガエンの大きな背中にぽんと手を置いた。
「……気にするな、ガオガエン。お前がサナを大好きなのは、俺が一番よく知ってるさ」
博士の言葉に、ガオガエンは顔を上げられないまま、小さく、悲しげに喉を鳴らすことしかできなかった。嵐が去ったあとの研究所には、サナの微かな寝息と、不器用な仲間たちの痛切な静寂だけが、重く満ちていた。
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