人見知りのサナの話
その日の朝、目が覚めた瞬間に、サナはいつもと違う違和感を覚えた。
喉の奥が、まるで硬い粘土で塞がれてしまったかのように重い。
(……あ、)
声を、出そうとした。
いつもなら、蚊の鳴くような声でも「……おはよう、ございます」と言えていたはずだった。なのに、喉がひゅっと鳴るだけで、言葉の形をした音は、どこにも引っかからずに消えていく。
何度息を吸い込んでも、喉の筋肉が強張って、声の出し方を忘れてしまったかのように何も出てこない。
(嘘……。声が、出ない……?)
サナの頭に、冷たい血が駆け巡る。
まただ。また私は、「普通の人が当たり前にできること」を失ってしまった。人と目を合わせられない、外に出られない、それどころか、ついに喋ることすらできなくなった。
出来損ないの、極みだ。
こんな私、本当にアローラに、この研究所にいていいはずがない。
恐怖と自己嫌悪で涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、サナは震える手で薬箱を探しに、リビングへと向かった。
リビングでは、ククイ博士がいつものようにコーヒーを淹れていた。
サナの足音に気づき、博士が振り返る。
「アローラ、サナ! 体調はどうだい?」
いつも通りの、明るくて太陽みたいな声。
サナは必死に喉を鳴らした。「……よくないです」とか、「声が出ないんです」とか、伝えたいことは山ほどあるのに、唇が虚しく動くだけで、リビングにはコーヒーの沸く音しか響かない。
「サナ……?」
ただ口をパクパクと動かし、涙目で立ち尽くしているサナの異変に、博士はすぐに気づいた。
手にしたマグカップをカウンターに置き、急いでサナの前に歩み寄る。
「どうした? どこか痛むのかい?」
サナは首を激しく横に振った。そして、自分の喉を指差し、もう一度、声を絞り出そうとする。
「あ、……っ、……ぅ」
かすれた空気の音だけが、虚しく漏れた。
博士の目が、驚きに少しだけ見開かれる。サナは「嫌われた」「呆れられた」と思って、恐怖で思わず一歩後ろに下がってしまった。背中が壁に当たり、逃げ場がなくなる。
謝らなきゃいけないのに。また迷惑をかけるって、言わなきゃいけないのに。
言葉が出ない。
サナが再びパニックに陥りそうになったその時、ククイ博士は驚かせるような動きを一切せず、その場にゆっくりと腰を落とした。サナと視線を合わせないように、少し斜めに視線を外しながら、ポケットから一本のペンと、いつも研究のメモに使っている小さなノートを取り出す。
「サナ、焦らなくていい。声が出ないなら、話さなくていいんだ」
博士はノートをサナの手元に差し出した。
「ここに、君の気持ちを書いてごらん。ゆっくりでいい。文字だって、立派な言葉だぜ」
手渡されたペンの重みが、サナの震える指先に伝わる。
サナは涙で視界を滲ませながら、殴り書きのようにノートにペンを走らせた。
『ごめんなさい。声が出なくなっちゃいました。何にもできない。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』
書き終えて、ノートを博士に突き出す。きっと、怒られる。こんな面倒な居候、いらないと言われる。
けれど、ノートを受け取ったククイ博士は、サナの言葉をじっと見つめたあと、深く、優しいため息をついた。そして、サナの頭を大きな手で包み込むようにして、くしゃりと撫でた。
「謝ることなんて、これっぽっちも無いさ」
博士はペンを取ると、サナの文字の下に、大きな、力強い文字を書き加えた。
『生きていてくれて、ありがとう。喋れなくたって、サナはサナだ』
「言葉なんてさ、ただの道具だよ。道具がちょっと壊れちゃったら、直るまで別のものを使えばいい。サナがここにいて、こうやって俺に気持ちを伝えてくれようとしている。それだけで、俺は十分嬉しいんだぜ」
博士の文字と、その言葉に、サナの胸の奥のつかえが、すうっと溶けていくような気がした。
ボロボロと大粒の涙がノートに落ちて、文字を滲ませる。
その時、足元にモゾモゾとした気配がした。
見ると、イワンコがサナの足元にそっと寄り添い、目を合わせないようにしながら、自分の背中をサナの脚に擦り付けていた。
ソファの向こうからは、ガオガエンが大きな腕を組んで、ふいっと窓の外を眺めている。まるで「声なんて出なくたって、俺たちの態度は変わらねえよ」とでも言うように、静かにそこに佇んでいた。
人間も、ポケモンも、誰もサナを責めない。
声が出なくなっても、世界は彼女を拒絶しなかった。
サナは涙を袖で拭うと、もう一度ペンを握り、ノートに小さく書いた。
『ありがとう』
それを見たククイ博士は、この上なく嬉しそうに破顔した。
「どういたしまして! よし、今日の朝ご飯は特製のパンケーキだ。声が出ない分、お腹はいっぱい食べような!」
博士がキッチンへ向かう後ろ姿を、サナは見つめる。
声はまだ出ない。けれど、この静かで温かい研究所の中なら、言葉がなくても、私は生きていていいのかもしれない――。サナはノートをぎゅっと胸に抱きしめ、少しだけ、本当に少しだけ、心が軽くなるのを感じていた。
喉の奥が、まるで硬い粘土で塞がれてしまったかのように重い。
(……あ、)
声を、出そうとした。
いつもなら、蚊の鳴くような声でも「……おはよう、ございます」と言えていたはずだった。なのに、喉がひゅっと鳴るだけで、言葉の形をした音は、どこにも引っかからずに消えていく。
何度息を吸い込んでも、喉の筋肉が強張って、声の出し方を忘れてしまったかのように何も出てこない。
(嘘……。声が、出ない……?)
サナの頭に、冷たい血が駆け巡る。
まただ。また私は、「普通の人が当たり前にできること」を失ってしまった。人と目を合わせられない、外に出られない、それどころか、ついに喋ることすらできなくなった。
出来損ないの、極みだ。
こんな私、本当にアローラに、この研究所にいていいはずがない。
恐怖と自己嫌悪で涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、サナは震える手で薬箱を探しに、リビングへと向かった。
リビングでは、ククイ博士がいつものようにコーヒーを淹れていた。
サナの足音に気づき、博士が振り返る。
「アローラ、サナ! 体調はどうだい?」
いつも通りの、明るくて太陽みたいな声。
サナは必死に喉を鳴らした。「……よくないです」とか、「声が出ないんです」とか、伝えたいことは山ほどあるのに、唇が虚しく動くだけで、リビングにはコーヒーの沸く音しか響かない。
「サナ……?」
ただ口をパクパクと動かし、涙目で立ち尽くしているサナの異変に、博士はすぐに気づいた。
手にしたマグカップをカウンターに置き、急いでサナの前に歩み寄る。
「どうした? どこか痛むのかい?」
サナは首を激しく横に振った。そして、自分の喉を指差し、もう一度、声を絞り出そうとする。
「あ、……っ、……ぅ」
かすれた空気の音だけが、虚しく漏れた。
博士の目が、驚きに少しだけ見開かれる。サナは「嫌われた」「呆れられた」と思って、恐怖で思わず一歩後ろに下がってしまった。背中が壁に当たり、逃げ場がなくなる。
謝らなきゃいけないのに。また迷惑をかけるって、言わなきゃいけないのに。
言葉が出ない。
サナが再びパニックに陥りそうになったその時、ククイ博士は驚かせるような動きを一切せず、その場にゆっくりと腰を落とした。サナと視線を合わせないように、少し斜めに視線を外しながら、ポケットから一本のペンと、いつも研究のメモに使っている小さなノートを取り出す。
「サナ、焦らなくていい。声が出ないなら、話さなくていいんだ」
博士はノートをサナの手元に差し出した。
「ここに、君の気持ちを書いてごらん。ゆっくりでいい。文字だって、立派な言葉だぜ」
手渡されたペンの重みが、サナの震える指先に伝わる。
サナは涙で視界を滲ませながら、殴り書きのようにノートにペンを走らせた。
『ごめんなさい。声が出なくなっちゃいました。何にもできない。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』
書き終えて、ノートを博士に突き出す。きっと、怒られる。こんな面倒な居候、いらないと言われる。
けれど、ノートを受け取ったククイ博士は、サナの言葉をじっと見つめたあと、深く、優しいため息をついた。そして、サナの頭を大きな手で包み込むようにして、くしゃりと撫でた。
「謝ることなんて、これっぽっちも無いさ」
博士はペンを取ると、サナの文字の下に、大きな、力強い文字を書き加えた。
『生きていてくれて、ありがとう。喋れなくたって、サナはサナだ』
「言葉なんてさ、ただの道具だよ。道具がちょっと壊れちゃったら、直るまで別のものを使えばいい。サナがここにいて、こうやって俺に気持ちを伝えてくれようとしている。それだけで、俺は十分嬉しいんだぜ」
博士の文字と、その言葉に、サナの胸の奥のつかえが、すうっと溶けていくような気がした。
ボロボロと大粒の涙がノートに落ちて、文字を滲ませる。
その時、足元にモゾモゾとした気配がした。
見ると、イワンコがサナの足元にそっと寄り添い、目を合わせないようにしながら、自分の背中をサナの脚に擦り付けていた。
ソファの向こうからは、ガオガエンが大きな腕を組んで、ふいっと窓の外を眺めている。まるで「声なんて出なくたって、俺たちの態度は変わらねえよ」とでも言うように、静かにそこに佇んでいた。
人間も、ポケモンも、誰もサナを責めない。
声が出なくなっても、世界は彼女を拒絶しなかった。
サナは涙を袖で拭うと、もう一度ペンを握り、ノートに小さく書いた。
『ありがとう』
それを見たククイ博士は、この上なく嬉しそうに破顔した。
「どういたしまして! よし、今日の朝ご飯は特製のパンケーキだ。声が出ない分、お腹はいっぱい食べような!」
博士がキッチンへ向かう後ろ姿を、サナは見つめる。
声はまだ出ない。けれど、この静かで温かい研究所の中なら、言葉がなくても、私は生きていていいのかもしれない――。サナはノートをぎゅっと胸に抱きしめ、少しだけ、本当に少しだけ、心が軽くなるのを感じていた。