もしも⚪︎⚪︎だったら?

アローラの午後の光が、部屋の隅々まで鮮やかに照らし出していた。
サナはベッドの上で、オレンジの花柄シャツの袖を何度も弄りながら、目の前にあるはずのマグカップに手を伸ばそうとして、その空を切った。

【緊急診察記録:午後3時】

状態: 急激な血圧変動、あるいは高熱に伴う一過性の視覚障害。

症状: 視調節障害(ピント不全)、および周辺視野の霧視。

分析: 脳への酸素供給の微減、または神経系への負荷により、水晶体の調節機能が麻痺している。本人は「見えていないこと」を認めるのが怖く、無意識に健常な動作を模倣しようとしているが、空間の把握に致命的なズレが生じている。

(……あれ、……おかしいな。……はかせの顔、……あんなに、遠かったっけ……?)

サナの視界は、まるで水の中にいるように歪み、境界線が溶け出していた。
ククイがすぐ傍で資料をめくる音は聞こえる。けれど、彼がどこに立っていて、どんな表情をしているのかが、どれだけ目を凝らしても捉えられない。白いパンツの膝の上に置いた自分の手さえ、白い霧の向こう側に隠れているようだった。

「サナ、薬を飲む前に少し水分を――」

ククイが声をかけながらサナの正面に立った瞬間、彼の動きが止まった。
サナは反射的に声のする方へ顔を向けたが、その瞳はククイの瞳を捉えることなく、彼の肩越しにある何もない空間を、虚ろに泳いでいた。

「……サナ。俺はここだ。どこを見ている?」

ククイの声から、日常の響きが消えた。
彼は手に持っていたトレイを静かに置き、サナの顔の前にそっと手をかざした。通常なら起こるはずの「追視」がない。彼女の瞳孔は光を求めて微かに開き、ピントを合わせようとして細かく震えていた。

「……はか、せ……? ……ごめんなさい、……ちょっと、……お部屋が、暗いみたいで……」

「部屋は明るいぞ、サナ。……視界がぼやけているんだな?」

ククイは即座にサナの頬を包み込み、自分の顔を彼女の至近距離まで寄せた。

「……っ、……あ……、……はかせ、……なの……?」

数センチの距離まで近づいてようやく、サナの瞳にククイの輪郭が薄っすらと映り込んだ。彼女の不安が一気に溢れ出し、焦点の合わない瞳から涙がこぼれ落ちる。

「……こわい、……なにも、見えないの。……はかせが、……消えちゃうみたいで……っ」

「消えない。俺はここにいる。……いいか、今、俺の手が君の頬に触れているだろう? この感覚を信じろ。視界が戻るまで、俺が君の『目』になってやる」

ククイはサナを抱き寄せ、彼女が暗闇の不安に飲み込まれないよう、その背中をゆっくりと叩き続けた。

『視覚情報の遮断による強度の不安状態を確認。
目線が合わないという一事から、神経学的変調を即座に特定。
……彼女は自分の「見えない」という事実を、俺に隠そうとした。
その健気さが、どれほど彼女を孤独な暗闇の中に突き落としていたか。
主治医の役割は、彼女の身体を治すだけではない。視界を失った彼女の手を引き、確かな『現実』へと導き戻すことだ。
……サナの瞳が、俺の声を頼りに必死に俺を探している。
大丈夫だ、サナ。たとえ世界がどれほど濁っても、俺だけは君の目の前から一歩も動かない。
光が戻るその瞬間、君が最初に見るものは、俺の笑顔だと決めているんだ。』

窓の外では、アローラの鮮やかな青い空が広がっていたが、部屋の中ではククイの静かな声だけが、サナの暗闇を優しく照らしていた。
サナは、ぼんやりとした世界の中で博士の体温だけを頼りに、視界が再び焦点を結ぶのをじっと待ち続けた。
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