もしも⚪︎⚪︎だったら?

アローラの朝の光が、静かに研究所のリビングへ差し込んでいた。

サナの病状は、このところ驚くほど安定していた。一時期のあの激しい高熱や眩暈が嘘のように小康状態を保ち、主治医からも「これなら一度、生まれ故郷の環境に戻ってみるのも選択肢の一つだ」と言われるまでに回復したのだ。

それは喜ぶべき奇跡のはずだった。
だが、ククイはデスクの前で、未開封の診断書を見つめたまま、深い思考の海に沈んでいた。

(カントーに、返す……? 本当に、それがこの子のためになるのか?)

サングラスを外し、眉間のあたりを強い力で揉みほぐす。彼の胸の奥を重く焦がしているのは、サナの「家族」に対する激しい不信感と怒りだった。

思い出すのは、数ヶ月前、ボロボロになったサナがアローラにやってきたときのことだ。
カントーにいる彼女の親族は、病気で動けないサナを「手がかかる」「これ以上家庭の余裕を奪われたくない」と露骨に厄介者扱いした。そして、親戚の伝てを頼り、はるか遠い南国の、独り身の研究者であるククイの元へ、まるで厄介な荷物を処理するかのように押し付けてきたのだ。

手首に刻まれた傷痕、存在があやふやになると泣いていた夜、明日が来るのを恐れていた姿――。
それらはすべて、病魔そのものだけでなく、最も愛されたい存在から拒絶され、見捨てられた絶望が作り出したものだった。

「ククイ博士、おはようございます」

ロフトの梯子をトントンと下りてきたサナが、穏やかな笑顔で声をかけてくる。その頬には、アローラの太陽がくれた健康的な赤みが差していた。

「ああ、おはよう、サナ。よく眠れたかい?」
「はい。なんだか最近、身体がすごく軽くて……」

嬉しそうに微笑むサナを見て、ククイの胸がズキリと痛んだ。
身体が治ったからといって、あの冷酷な家族の元へ彼女を戻せばどうなるか。最初は「治ってよかった」と迎えるかもしれない。だが、また少しでも体調を崩せば、あるいは彼らの都合が悪くなれば、サナは再び「お荷物」として扱われるだろう。せっかくアローラで再生しかけている彼女の心が、今度こそ完全に壊れてしまう。

(あんな冷たい場所に、この子を帰してなるものか)

ククイは静かに拳を握りしめた。
世間一般の「正しい家族の形」が、必ずしもその人間にとっての幸福とは限らない。それを彼は、これまでの人生や、ポケモンたちの生態を通して嫌というほど知っていた。

「ねぇ、博士? どうしたんですか、難しい顔をして」

覗き込んできたサナの瞳は、濁りのない綺麗な輝きを取り戻しつつある。
ククイはすぐにいつもの頼もしい笑顔を作り、彼女の柔らかな髪を大きな手でくしゃりと撫でた。

「いや、ちょっと次の講義の進め方を考えていてな。……なぁ、サナ」

「はい?」

「アローラの気候は、君の身体にすごく合っているみたいだ。もし……もし君さえ良ければ、病気が完全に治った後も、ずっとここにいて、俺と一緒にアローラの海を見て暮らさないか?」

サナは驚いたように目を見開いた。

「だって、私、もう元気になったらカントーのお家に帰らなきゃいけないんじゃ……」

「そんな決まりはどこにもないぜ」
ククイは立ち上がり、彼女の細い肩に手を置いて、真っ直ぐにその目を見つめた。

「俺が君の保護者(ファミリー)だ。君が望むなら、この研究所がずっと君の家だ。誰にも君を連れて行かせやしない。……だから、余計な心配は全部アローラの海に流しちまいな」

力強いその言葉に、サナの瞳からじわとりと涙が溢れ出す。けれどそれは、あの絶望の夜の涙とは違う、安堵の涙だった。

ククイは確信していた。どれほど血が繋がっていようとも、命を慈しみ、守ろうとしない場所は家とは呼ばない。サナを二度とあの暗闇へ戻さないこと。それだけが、彼女の「本当の家族」になると決めた、ククイの譲れない覚悟だった。
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