世界一優しい私の主治医

夕闇が研究所の輪郭をあやふやに溶かしていく時間帯。
ロフトのベッドの上で、サナは異様な恐怖と戦っていた。

いつもの頭痛や、熱が上がる時の悪寒ではない。今まで一度も、痛んだことすらなかった場所――胸の奥、肋骨の隙間を内側から重く、鋭く抉るような未知の痛みが、先ほどから断続的に彼女を襲っているのだ。

(なんで……? どうしてここが痛いの……?)

病状が新しい段階に進んでしまったのではないかという、底知れない恐怖。
恐ろしくて、声を出すことさえできない。ただでさえククイに迷惑をかけているのに、これ以上「新しい異常」が見つかったら、いよいよ自分の身体は壊れてしまうのではないか。

その時、リビングから静かに梯子を上がってくる足音が聞こえた。
ククイだ。サナは咄嗟に布団を被り、痛む胸を押さえて寝たふりをした。

「サナ、夕飯のスープを持ってきたぞ」

トレイを持ったククイが部屋に入ってくる。しかし、彼はサイドテーブルにトレイを置くと、すぐに異変に気づいた。寝たふりをしているサナの呼吸が浅く、不自然に速い。そして、布団の上からでもわかるほど、微かに身体が強張っている。

ククイはベッドの脇に置かれた丸椅子を引き寄せ、腰掛けた。
いつもなら「アローラ!」と快活に声をかける彼が、今はあえて静かな、落ち着いたトーンで語りかける。

「……サナ。起きているのはわかっている。どこか苦しいのかい?」

サナは布団の中でぎゅっと目を閉じた。
「……なんでも、ないです。ちょっと、お腹が空いてないだけで……」

嘘だ。声が震えている。
ククイは追及するように声を荒らげたりはしない。ただ、じっと彼女の気配を見つめながら、ゆっくりと、けれど確実に距離を詰めていく。

「お腹が空いていないだけなら、どうしてそんなに肩を震わせているんだ?」

ククイはベッドのシーツにそっと手を置き、サナの逃げ道を塞ぐように少しだけ身を乗り出した。彼の纏う、温かくも圧倒的な「大人の守護者」としての気配が、布団越しにじんわりと伝わってくる。

「サナ。君が何かを隠すときは、決まって『俺に迷惑をかけたくない』と思っているときだ。だがな、隠されることの方が、俺にとってはよっぽど堪えるんだぜ」

低い、けれど鼓膜の奥を揺らすような優しい声。
ククイはゆっくりと手を伸ばし、サナが頭まで被っていた毛布を、拒まれない程度の速度で、静かに、少しずつ引き下げていった。

露わになったサナの顔は、苦痛と恐怖で涙に濡れていた。彼女の小さな手は、しっかりと胸元を圧迫するように押さえつけられている。

「……そこが痛むのか?」

ククイの眼差しが、一瞬で研究者、そして主治医としての鋭さを帯びた。
サナはなおも首を振って拒もうとしたが、ククイはその細い手首を優しく、けれど容易に解けない強さで包み込んだ。

「話しなさい、サナ。どんな痛みだ? いつからだ?」

「……こわい、の……」
ついに、サナの決壊した感情が溢れ出た。

「今まで、こんなところ痛くなったことなかったのに……っ。新しい病気かもしれない、もう治らないかもしれないって思ったら、怖くて……博士に言えなかった……!」

怯え、震えるサナの身体を、ククイは手首を掴んだまま、もう片方の腕で引き寄せるように強く抱きしめた。彼の胸の、広くて揺るぎない温かさが彼女の痛む胸を包み込む。

「怖かったな。よく話してくれた」

ククイは彼女の背中を大きな掌でゆっくりとさすり、恐怖を解きほぐしていく。

「大丈夫だ。未知の痛みは誰だって怖い。だが、俺がいるのを忘れたかい? 原因が何であれ、俺が必ず突き止めて、その痛みを取り除いてやる。君の身体の中で起きていることに、俺が負けるわけがないだろう」

彼の力強い言葉と、すぐそばで響く心音。
中々口を割らなかった頑ななサナの心が、ククイの圧倒的な包容力によって、静かに、優しく溶かされていった。
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