世界一優しい私の主治医

「よし、サナ! ここまでの流れはバッチリだな。じゃあ、次のステップだぜ」

研究所のリビング。ホワイトボードの前に立つククイの声は、アローラの太陽のように快活だった。サナのための特別なマンツーマンの授業は、今日も順調に進んでいる――ように見えた。

ククイはホワイトボードに、あるポケモンの複雑なタイプ相性と特性の絡み合いを、流れるような手付きで書き殴った。そして、いつものスクールで生徒たちに向けるような、全幅の信頼を寄せた笑顔で振り返る。

「流石に、これくらいはサナもわかるよな! この状況で相手の技をスカせる特性を持つポケモンは、一体なんだと思う?」

ククイの瞳には、「君なら当然、正解して見せるだろう」という純粋な期待が満ち満ちていた。

(えっ……)

サナの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
ホワイトボードに書かれた数式のような相性表。カタカナの羅列。
正直に言えば、頭の中は真っ白だった。カントーとアローラでは環境もポケモンの生態も違いすぎるし、そもそもここ数週間、まともに授業を受けられていなかったのだ。

けれど、ククイのあの輝くような笑顔と、自分に向けられた期待の眼差しを見てしまうと、どうしても「わからない」とは言えなかった。ここで落胆させたくない。彼の期待に応えられる、優秀な生徒でいたかった。

サナはぐっと拳を握りしめ、彼の自信満々な態度を汲み取るように、精一杯の強がりを声に乗せる。

「も、もちろんですよ! それくらい、私にだってわかります!」

「お、いい返事だ! じゃあ、答えを聞かせてもらおうか!」

ククイがさらに身を乗り出してくる。
サナは喉がカラカラに渇くのを感じながら、必死にホワイトボードの文字を睨みつけた。

(どうしよう……全然わからない。特性……? 浮遊? 避雷針? 貯水……? 待って、どれがアローラの相性に当てはまるの……?)

時間が、恐ろしいほどの沈黙となって部屋を支配していく。
「えっと、それは……その……」
紡ぎ出そうとした言葉は形にならず、サナの顔からみるみる血の気が引いていった。指先が冷たくなり、焦燥感で視界がチカチカと震え始める。

サナの異変に、ククイの表情がサッと切り替わった。
サングラスの奥の目が、サナの泳ぐ視線と、震える唇を捉える。

「……サナ?」

「ごめんなさい……っ!」
サナはついに耐えきれなくなり、頭を深く下げた。
「嘘をつきました……! わかりません、全然……何が書いてあるのか、今の私には一つも理解できなくて……。わかりますなんて大口叩いて、博士をガッカリさせて、ごめんなさい……っ」

涙がボロボロと机に落ちる。せっかく自分のために用意してくれた時間なのに、台無しにしてしまった。

そんなサナの前に、大きな影が落ちた。
叱られる、そう身構えたサナの頭に触れたのは、驚くほど静かで、どこか痛みを堪えるような温かい掌だった。

「……違うんだ、サナ。謝らなきゃいけないのは、俺の方だ」

低い、ひどく沈んだククイの声。
サナが恐る恐る顔を上げると、ククイはホワイトボードの前に膝をつき、サナと目線を合わせるようにして、ひどく悔しそうな顔をしていた。

「『これくらいわかるよな』だなんて……。サナ、俺はどうかしていた。教師失格だぜ」

「博士……?」

「君がカントーから来て、しかもずっと体調を崩して、アローラの基礎的な知識を学ぶ余裕なんてなかったこと……全部知っていたはずなのに。君の頑張りに甘えて、俺の基準を押し付けて、勝手に『できるはずだ』と決めつけてしまった」

ククイはサナの小さな手を両手で包み込み、真摯な瞳で真っ直ぐに見つめた。

「生徒が『わからない』と言えないような雰囲気を作ってしまった時点で、俺の負けだ。サナ、本当にすまない。……教師として、君という一人の生徒との向き合い方を、最初から猛省しなきゃいけない」

「そんなことないです……! 博士はいつだって優しくて……」

「優しさと、甘えは違うさ。俺は君の『主治医』であり『教師』だ。君が怯えずに、等身大のままでいられる場所を作ってやれなきゃ意味がないんだぜ」

ククイはいつもの快活な笑顔を少しだけ戻し、サナの涙をそっと指で拭った。

「よし、授業は一時中断だ。1時間目のホワイトボードは全部消そう。次は……『わからないことを、わからないと大声で叫ぶ時間』にするか。サナ、俺がアローラの基礎の基礎から、君のペースに合わせて、何度でも、何百回でも教えてやるからな」

その言葉に、サナの胸の焦りが、温かな涙となって溶けていく。
ククイの手の温もりを感じながら、サナは今度こそ、背伸びをしない本当の笑顔で「はい」と頷いた。
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