世界一優しい私の主治医

ロフトのベッドの上で、サナはククイから借りた大きな教科書を開いていた。

部屋には、サナがページをめくる「サッ」という音と、少し離れたデスクでククイがキーボードを叩く「カタカタ……」という規則正しい音だけが響いている。小康状態とはいえ、まだ文字を追うだけでも少し頭が疲れる。さらにアローラの歴史や風土にまつわる専門的な本ということもあって、見たことのない独特な単語が次から次へと現れた。

「あの、博士……」
「ん? どうした、サナ」

ククイはキーボードを叩く手を止め、すぐに椅子をくるりと回してサナを振り返る。

「この……『しまめぐり』って、具体的に何をするんですか?」
「お、いいところに目をつけたな! それはアローラに古くから伝わる儀式でな、4つの島を巡って、それぞれのキャプテンや島キングたちの試練を乗り越えていくんだ。ポケモンと共に、心身を成長させるための……」

ククイはサングラスの奥の目を輝かせ、子供のように丁寧に、かつ熱っぽく教えてくれた。サナは「なるほど……」と頷き、また本に目を落とす。

しかし、それから10分後。

「博士……。この『大試練』と『試練』の違いは……」
「それはな……」

さらに15分後。

「博士、この『カプ』の後に書いてある『ぜんりょく』って……」
「おっと、そこはアローラのバトルの根幹に関わる部分だぜ! つまりだな……」

わからない単語が出るたびに、ククイは嫌な顔一つせず、作業を中断して解説してくれた。けれど、ふとデスクの方へ目をやると、彼のパソコンの画面には、まだ書きかけの複雑なデータや論文の羅列がぎっしりと表示されているのが見えた。

(……あ、また止めちゃった)

サナは急に胸がキュッと締め付けられるような罪悪感に襲われた。
博士は今、すごく大事な仕事をしているはずだ。それなのに、自分が子供みたいな質問を何度も繰り返して、その度に彼の貴重な時間を細切れにしてしまっている。

次に現れた『リージョンフォーム』という単語を見つけたとき、サナはごくりと唾を飲み込み、開けかけた口をぎゅっと閉じた。

(……これ以上、聞いちゃダメだ。邪魔になっちゃう……)

本を閉じて寝たふりをするべきか、それとも自分で無理に読み進めるべきか。
サナが教科書の端をぎゅっと握りしめ、不安そうに視線を彷徨わせていると――突然、視界がふわりと暗くなった。

「サナ。どうした、急に静かになって」

いつの間にかベッドの傍らまで歩いてきていたククイが、サナの顔を覗き込んでいた。その手には、解説用のペンではなく、二つのマグカップが握られている。

「あ……ううん、なんでもないです。ちょっと、自分で考えてみようと思って……」

「ふむ? 眉間にシワが寄ってるぜ。先生の直感だと、質問したいけど『邪魔しちゃ悪いな』なんて、可愛い遠慮をしてる顔に見えるがな」

見透かしたような言葉に、サナは肩をビクッと揺らした。

「だって……博士、お仕事中なのに、私が何度も遮っちゃうから。これじゃ全然作業が進まないですよね? 私、やっぱり迷惑を……」

言いかけるサナの頭に、温かいカップから立ち上る湯気がふわりと当たった。
ククイは苦笑しながら、一つのカップをサナの手に握らせる。中身はほんのり甘い、温かなミルクティだった。

「サナ。俺はスクールの教師だぜ? 生徒が新しい知識に興味を持って、質問してくれること以上に嬉しい『邪魔』なんて、この世に存在しないさ」

「でも……」

「それに、論文のデータ入力なんてのは、ずっと続けてると頭が凝り固まっちまうんだ。君がアローラの質問をしてくれるおかげで、俺の脳みそも良い気分転換(リフレッシュ)になってる。つまり、お互い様ってことだ」

ククイは自身のコーヒーを一口飲むと、サナの隣、ベッドの端に腰掛けた。

「だから、遠慮は禁止だ。わからない言葉があったら、何度でも、何百回でも俺を呼びなさい。君がアローラのことを知りたいと思ってくれるのが、俺はたまらなく嬉しいんだからな」

大きな掌がサナの頭を優しく撫でる。
その温もりに、サナの胸を満たしていたモヤモヤとした不安は、すうっと消えていった。

「……じゃあ、博士。この『リージョンフォーム』って、どういう意味ですか?」

「よし、きた! それはな、アローラの独自の環境に適応して、他の地方とは姿やタイプが変わったポケモンのことで……」

嬉しそうに語り始めるククイの声を聞きながら、サナは温かいカップを両手で包み込み、今度こそ安心して、アローラの新しい知識へと耳を傾けた。
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