世界一優しい私の主治医

窓の外では、アローラの穏やかな波の音がいつものように響いている。
研究所のリビング、ソファにククイと並んで座り、温かいココアのマグカップを両手で包み込んでいたサナは、ふいにその小さな手を震わせた。

「……ねぇ、博士」

ポツリと溢れた声は、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
ククイは手元に広げていた資料から視線を外し、隣の少女へと向けた。

「どうしたんだい、サナ」

サナはマグカップを見つめたまま、まつ毛を濡らし、狂おしいほどの不安を吐露し始めた。

「私、ときどき、怖くて息ができなくなるの。……こんなに優しくされて、毎日が温かくて、こんなに幸せすぎていいのかなって。もしかしたら、ここで過ごしている時間も、博士の笑顔も、全部……全部、私が病室で見ている、ただの都合のいい夢なんじゃないかって」

「サナ……」

「だって、おかしいもん。あんなに冷たくて、暗かった私の毎日に、こんな眩しい太陽みたいな場所があるなんて信じられない……。もし、明日目が覚めたら、あのカントーの冷たい白い天井の下で、また四角いベッドに閉じ込められちゃうのかな……。あそこは誰も私を見てくれない。ただ、機械の音だけが響いて、誰も手を握ってくれないの……」

サナの指先が白くなるほどにマグカップが握りしめられ、涙がココアの表面に波紋を作った。彼女は怯えた目をしてククイの白衣の袖を掴む。

「もう一生、夢から覚めたくない……っ。もしこれが夢なら、お願いだから私を起こさないで、博士……! ずっとこのままでいさせて……!」

カントーの病院で彼女が味わってきた、深い孤独と絶望。それがトラウマとなって、今目の前にある幸福さえも恐怖に変えてしまっているのだ。

ククイはサナの手からそっとマグカップを取り、テーブルへと置いた。
そして、今にも消えてしまいそうな彼女の小さな身体を、両腕でしっかりと、骨まできしむほどの力強さで抱きしめた。

「サナ。よく聞いてくれ」

耳元で響くククイの声は、低く、重く、そしてこれ以上ないほど現実の質量を持っていた。

「ここにあるのは、夢なんかじゃない。アローラの太陽も、この潮風の匂いも、君の身体を包んでいるこの毛布の温かさも、すべて本物だ。……何より、今こうして君を抱きしめている俺の腕の痛いくらいの強さが、その証拠だぜ」

ククイは彼女の背中を、大きな掌でゆっくりと、存在を確かめるようにさすり続ける。

「カントーの病室には、もう二度と戻らせない。もし仮に、これが誰かの見ている夢だったとしても、俺がその世界ごと君をアローラへ奪い去ってやる。君の未来をあの冷たい場所に閉じ込めさせたりはしないさ」

「……はか、せ……」

「夢から覚めるのを恐れる必要はない。明日も、明後日も、目が覚めたら目の前には俺がいる。君の手を握って、何度でも『アローラ』って言ってやるからな」

ククイは少し身体を離すと、サナの涙に濡れた目元を指先で優しく拭い、強く、眩しいほどの笑顔を向けた。

「だから安心して、俺の隣で生きててくれ、サナ」

その胸に再び顔を埋めたサナの耳に、トクン、トクンと力強く刻まれる彼の心音が届く。その確かなリズムが、彼女を縛り付けていたカントーの幻影を、ゆっくりと、けれど完全に、アローラの光の中へと溶かしていった。
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