世界一優しい私の主治医
「サナ、入るぞ。夕飯の前に、少し様子を……」
リビングから梯子を上がってきたククイの声が、薄暗いロフトに響いた。
その瞬間、サナは自分が限界まで張り詰めていたことに気づいた。膝を抱えたまま、ゆっくりと振り返る。読書灯のオレンジ色の光に照らされた彼女の瞳は、今にも決壊しそうなほどの涙で潤んでいた。
「……博士」
「サナ!? どうした、どこか痛むのか?」
ククイは彼女のただ事ではない様子に、すぐさまベッドの傍らへ膝をついた。サナの小さな肩は、微かに、けれど激しく震えている。
「どうしよう……博士、私、どうしよう……っ」
「落ち着いて。俺がここにいる。何があったんだい?」
ククイは安心させるように彼女の冷たい手を包み込んだ。サナはその大きな掌の温もりにすがるように、先ほどまで一人で抱え込んでいた恐怖を、堰を切ったように吐き出した。
「私、ここ1週間……ずっと、本を読んで、何分集中できるか試してたの。……最初は1時間読めたのに、一昨日には30分になって……今日は、たった15分で、文字がバラバラになって読めなくなっちゃった……」
「サナ……」
「身体だけじゃなくて、頭までダメになっちゃう。このままだと、博士がせっかくやってくれた『スクールの日』の授業だって、もう1時間目すら最後まで受けられなくなっちゃう……。私の『今』が、どんどん削られて、なくなっていくの……。どうしよう、怖いよ……っ!」
坂道を転がり落ちるように退化していく自分への恐怖。
サナはククイの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。せっかく彼が「ここにいていい」と未来を約束してくれたのに、その未来を生きるための自分自身が、内側から壊れていくような絶望だった。
ククイは何も言わず、彼女の小さな頭をその大きな掌で包み込み、ただ静かに、彼女の背中を一定のリズムでトントンと叩き続けた。
彼女の恐怖の重さを、まずはすべて受け止めるように。
やがて、サナの嗚咽が少しずつ静まり、小さな息の音だけが響くようになった頃、ククイは静かに口を開いた。
「サナ、よく頑張って実験したな。怖かっただろう」
「……う、ん」
「だけどな、先生から言わせてもらえば……その実験は、最初から条件が間違っているぜ」
ククイはサナの身体を少しだけ離し、その涙に濡れた顔を覗き込んで、いつもの揺るぎない、頼もしい笑みを浮かべた。
「15分しか集中できなかったんじゃない。今の君の身体のコンディションで、15分も文字を追うエネルギーを絞り出したんだ。それは『退化』なんかじゃない、サナの命が全力で戦っている証拠だ」
「でも……これじゃあ、お勉強も、何もできなくなっちゃう……」
「誰が1時間、じっと座って教科書を読めなんて決めたんだい?」
ククイはサナの額に優しく手を当て、熱がないかを確かめながら続けた。
「だったら、次の『スクールの日』は、時間割を15分ずつに区切ればいいだけさ。15分お勉強して、45分お昼寝する。それの何がいけないんだ? 誰もサナを急かしたりしないし、置いていったりもしない。君のペースが、この研究所の時間割になるんだぜ」
「私の、ペース……」
「ああ。15分が10分になっても、5分になっても同じだ。その5分の中で、君がアローラの光を見て『綺麗だな』って思えたら、それだけで100点満点だ。サナの『今』は、絶対に削られてなんかいない。俺がこうして、全部ここに留めておくからな」
ククイは力強く断言すると、彼女の目元に残る涙を優しく拭った。
「どうしよう、なんて悩まなくていい。どうするか決めるのは、大人で、博士である俺の役目だ。君はただ、『今日は15分頑張ったぞ』って俺に胸を張っていればいいんだぜ」
「……博士……」
サナの胸の奥を冷たく満たしていた恐怖が、彼の温かい言葉によって、ゆっくりと融かされていく。
明日がどうなるかは、まだ分からない。それでも、この人が隣で時間割を書き換えてくれる限り、自分は何度でも前を向ける。サナは小さく、けれど確かに頷いて、もう一度彼の優しい手に力を込めて握り返した。
リビングから梯子を上がってきたククイの声が、薄暗いロフトに響いた。
その瞬間、サナは自分が限界まで張り詰めていたことに気づいた。膝を抱えたまま、ゆっくりと振り返る。読書灯のオレンジ色の光に照らされた彼女の瞳は、今にも決壊しそうなほどの涙で潤んでいた。
「……博士」
「サナ!? どうした、どこか痛むのか?」
ククイは彼女のただ事ではない様子に、すぐさまベッドの傍らへ膝をついた。サナの小さな肩は、微かに、けれど激しく震えている。
「どうしよう……博士、私、どうしよう……っ」
「落ち着いて。俺がここにいる。何があったんだい?」
ククイは安心させるように彼女の冷たい手を包み込んだ。サナはその大きな掌の温もりにすがるように、先ほどまで一人で抱え込んでいた恐怖を、堰を切ったように吐き出した。
「私、ここ1週間……ずっと、本を読んで、何分集中できるか試してたの。……最初は1時間読めたのに、一昨日には30分になって……今日は、たった15分で、文字がバラバラになって読めなくなっちゃった……」
「サナ……」
「身体だけじゃなくて、頭までダメになっちゃう。このままだと、博士がせっかくやってくれた『スクールの日』の授業だって、もう1時間目すら最後まで受けられなくなっちゃう……。私の『今』が、どんどん削られて、なくなっていくの……。どうしよう、怖いよ……っ!」
坂道を転がり落ちるように退化していく自分への恐怖。
サナはククイの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。せっかく彼が「ここにいていい」と未来を約束してくれたのに、その未来を生きるための自分自身が、内側から壊れていくような絶望だった。
ククイは何も言わず、彼女の小さな頭をその大きな掌で包み込み、ただ静かに、彼女の背中を一定のリズムでトントンと叩き続けた。
彼女の恐怖の重さを、まずはすべて受け止めるように。
やがて、サナの嗚咽が少しずつ静まり、小さな息の音だけが響くようになった頃、ククイは静かに口を開いた。
「サナ、よく頑張って実験したな。怖かっただろう」
「……う、ん」
「だけどな、先生から言わせてもらえば……その実験は、最初から条件が間違っているぜ」
ククイはサナの身体を少しだけ離し、その涙に濡れた顔を覗き込んで、いつもの揺るぎない、頼もしい笑みを浮かべた。
「15分しか集中できなかったんじゃない。今の君の身体のコンディションで、15分も文字を追うエネルギーを絞り出したんだ。それは『退化』なんかじゃない、サナの命が全力で戦っている証拠だ」
「でも……これじゃあ、お勉強も、何もできなくなっちゃう……」
「誰が1時間、じっと座って教科書を読めなんて決めたんだい?」
ククイはサナの額に優しく手を当て、熱がないかを確かめながら続けた。
「だったら、次の『スクールの日』は、時間割を15分ずつに区切ればいいだけさ。15分お勉強して、45分お昼寝する。それの何がいけないんだ? 誰もサナを急かしたりしないし、置いていったりもしない。君のペースが、この研究所の時間割になるんだぜ」
「私の、ペース……」
「ああ。15分が10分になっても、5分になっても同じだ。その5分の中で、君がアローラの光を見て『綺麗だな』って思えたら、それだけで100点満点だ。サナの『今』は、絶対に削られてなんかいない。俺がこうして、全部ここに留めておくからな」
ククイは力強く断言すると、彼女の目元に残る涙を優しく拭った。
「どうしよう、なんて悩まなくていい。どうするか決めるのは、大人で、博士である俺の役目だ。君はただ、『今日は15分頑張ったぞ』って俺に胸を張っていればいいんだぜ」
「……博士……」
サナの胸の奥を冷たく満たしていた恐怖が、彼の温かい言葉によって、ゆっくりと融かされていく。
明日がどうなるかは、まだ分からない。それでも、この人が隣で時間割を書き換えてくれる限り、自分は何度でも前を向ける。サナは小さく、けれど確かに頷いて、もう一度彼の優しい手に力を込めて握り返した。