世界一優しい私の主治医

高熱の爪痕は、熱が下がった後もサナの身体に重く居座り続けていた。

ベッドの上で横たわるサナの頭の中は、まるで分厚い灰色の霧が立ち込めているかのように、ずっと霞がかっていた。思考をまとめようとしても、砂時計の砂のように指の隙間からサラサラとこぼれ落ちていってしまう。

「……だからな、サナ。次の検査のスケジュールなんだが……」

枕元に椅子を引き寄せ、ククイが何枚かの書類を手に語りかけている。いつも通り優しく、聞き取りやすいはずの彼の声。
けれど、今のサナの耳には、それがまるで遠い水の底から響いてくる、意味を持たない音の羅列のようにしか聞こえなかった。

『検査』『スケジュール』『数値』――。
単語としては辛うじて拾えるのに、それらが脳の中で一つの文章に繋がらない。ククイの言葉の半分も理解できないまま、ただ意味もなく彼の唇の動きを追うことしかできなかった。

(どうしよう……。博士が、なんて言ってるのか、わかんない……)

焦れば焦るほど、頭の中の霧は濃くなっていく。以前なら簡単に理解できたはずの簡単な会話さえ、今の自分には高すぎる壁のようだった。

「サナ? 聞いてるかい?」

ククイが怪訝そうに言葉を止め、覗き込んできた。
その瞬間、サナの胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて弾け飛んだ。

(ああ、私……とうとう頭が壊れちゃったんだ。病気のせいで、馬鹿になっちゃったんだ……)

これ以上、ククイに迷惑をかけたくないのに。治って、いつか彼の役に立てるようになりたいのに。まともな思考さえ奪われてしまったのだとしたら、自分はもう、本当にただの抜け殻ではないか。
あまりのショックと情けなさに、言葉すら出てこない。

サナはククイから視線を外すと、力なく横を向き、布団の端をぎゅっと握りしめた。
声を上げて泣く気力さえなかった。ただ、溢れ出てくる涙が枕を静かに、深く濡らしていく。肩を微かに震わせながら、音もなく泣き続けるサナの姿に、ククイはすぐに異変を察知した。

「サナ……! どこか痛むのか? 苦しいのかい!?」

慌ててベッドに手をつき、彼女の顔を覗き込もうとするククイ。しかし、サナはただ首を小さく横に振るだけで、頑なに顔を隠そうとする。

「……ごめん、なさい……。はかせ、ごめんなさい……」
「サナ、どうして謝るんだ」

「私……ばかになっちゃった……。博士の言ってること、半分もわかんなくて……頭が、おかしくなっちゃったの……。もう、まともに、お話もできない……っ」

消え入るような、絶望に満ちた告白。

それを聞いたククイは、一瞬だけ痛痛しそうに目を細めたが、すぐに全てを理解したように深い吐息を漏らした。彼は強引にではなく、けれど拒ませない確かな優しさで、サナを布団ごとそっと抱き寄せた。

「そうか。頭がぼんやりして、俺の言葉が遠く感じられたんだな。……怖かったな、サナ」

「……っ……、……」

「馬鹿になったんじゃない。壊れてなんかないさ。サナの身体は今、あの酷い高熱から命を守るために、全エネルギーを回復に回している最中なんだ。脳みそをお休みモードにして、身体を最優先で治そうとしてるんだぜ。……これはな、生物として大正解の防御反応だ」

ククイは彼女の背中を、規則正しいリズムでトントンと優しく叩いた。

「言葉なんて、今は理解できなくていい。俺の言うことも、右から左へ聞き流してくれ。話したくなければ、黙っていたっていいんだ。……サナがただここにいて、息をしてくれているだけで、俺にとってはそれだけで十分なんだからな」

彼の胸から響く、低くて温かい心音。言葉の意味は分からなくても、その「音」と「体温」が、サナの壊れかけた世界をもう一度しっかりと繋ぎ止めてくれる。

「ゆっくりでいいさ。霧が晴れるまで、俺がずっとここで、君の代わりに考えてやるからな」

ククイの腕の中で、サナは張り詰めていた涙をようやく全て吐き出すように、彼の白衣を濡らし続けた。
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