世界一優しい私の主治医
ホワイトボードの前に立つククイは、いつものようにハツラツとした笑顔で、手元の世界地図を優しくペンで叩いた。
「よし、サナ。それじゃあ今日から『アローラの地理』について、じっくり学んでいこうか! まずは基本中の基本、アローラ地方が世界地図のどのあたりに位置しているか、指でさしてみてくれるかい?」
ククイから促され、サナはベッドから少し身を乗り出して、ホワイトボードの地図をじっと見つめた。
カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ、イッシュ……。教科書で見たことのある地方の名前が並んでいる。けれど。
「ええと、……アローラ、は……」
サナの指先が、地図の上で迷子になったようにウロウロと泳ぐ。
見つからない。そもそも、アローラがどの地方に近くて、どれくらいの大きさなのかさえ、頭の中に全くイメージが湧いてこないのだ。カントーから飛行機に乗せられて、気づけばこの研究所のベッドにいた。ただそれだけだった。
「……ごめんなさい、博士。私、アローラがどこにあるのか……全然わかりません」
「ハハ、気にするな! 最初はみんなそんなもんだぜ。じゃあ、サナが育ったカントー地方はどこにある?」
「カントー、は……ここ、かな?」
サナは自信なさげに、慣れ親しんだ形の島を指さした。それは見事に、まったく別のホウエン地方だった。
ククイの表情が一瞬、あッ、という風に固まったのを、サナは見逃さなかった。
博士はすぐに「いやいや、惜しい! ホウエンも海が綺麗だから間違えやすいよな!」と明るくフォローしてくれたけれど、サナの心には、冷たい氷水を一気に浴びせられたような衝撃が走っていた。
(私……カントーの場所すら、間違えた……?)
絶望の波が、一気につま先から押し寄せてくる。
体調が悪く、幼い頃からまともに学校に通えなかった。それは事実だ。けれど、まさか自分が、小学校で習うような世界の常識すら、何一つ身につけていないなんて思いもしなかった。
アローラがどこにあるかも知らない。
自分が育った故郷の場所すらわからない。
他のスクール生たちがポケモンバトルや進化の法則について熱弁している中、自分はそれ以前の、生きるためのスタートラインにすら立てていないのだ。
「私……本当に、何も知らないんだ……」
ポツリと溢れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「サナ?」
「漢字もまともに読めないし、計算だって他の子みたいに早くできない。アローラがどこかも分からないなんて……私、留学生なんて大層な名前だけで、本当はただの、頭の悪い、お荷物なだけじゃないですか……っ!」
ノートを握りしめる指先が、情けなさで激しく震える。
ククイがこんなに時間を割いて、つきっきりで家庭教師みたいに教えてくれているのに、自分はあまりにも無知で、空っぽで、教える価値すらない存在に思えて仕方がなかった。こんな常識のない人間を相手にさせている申し訳なさと、自身の不甲斐なさに、視界が涙で滲んでいく。
ククイは手にしていたペンを置くと、椅子をサナのすぐ目の前まで引き寄せた。
そして、逃げようとする彼女の両肩を、大きな手でしっかりと、けれど優しく包み込む。
「サナ。俺の目をちゃんと見てごらん」
低く、けれど心に真っ直ぐ届く声。サナがおそるおそる涙目を見開くと、ククイはサングラスを外し、温かな瞳で彼女をじっと見つめていた。
「いいかい、サナ。学校に行けなかった君が、地方の場所を知らないのは『当然』のことだ。それは君が悪いんじゃない。学ぶ機会がなかった、ただそれだけだぜ」
「でも……博士に、迷惑を……」
「迷惑なもんか! むしろ俺は今、めちゃくちゃワクワクしてるんだ。だって、アローラがどこにあるか知らないってことは、これからアローラの素晴らしさを、君の真っ白な心に一番乗りで教え込めるってことだろう?」
ククイは悪戯っぽく笑い、サナの涙を白衣の袖でそっと拭った。
「カントーの場所を間違えたっていいさ。今日から俺と一緒に、一つずつ覚えていけばいい。常識なんてものは、これからいくらでも作っていける。サナは何も恥じる必要はないんだ。……な? 『お荷物』なんて、二度と自分をいじめるような言葉は使うなよ」
大きな掌が、サナの頭を優しく、何度も撫でる。
その温もりに包まれているうちに、自分の「無知」が、決して罪ではないのだと教えられている気がした。
「……博士。私、本当に……覚えられるかな」
「ああ、保証するぜ。俺はこれでも、最高に教え上手な『ククイ博士』だからな! よし、それじゃあ1時間目のやり直しだ。まずはアローラとカントーの位置を、俺と一緒に地図に特大の丸をつけるところから始めよう!」
ククイの力強い言葉に、サナは涙を流しながらも、小さく、けれど確かに頷いた。空っぽだった彼女の世界に、ククイの手によって、新しい地図が少しずつ描かれようとしていた。
「よし、サナ。それじゃあ今日から『アローラの地理』について、じっくり学んでいこうか! まずは基本中の基本、アローラ地方が世界地図のどのあたりに位置しているか、指でさしてみてくれるかい?」
ククイから促され、サナはベッドから少し身を乗り出して、ホワイトボードの地図をじっと見つめた。
カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ、イッシュ……。教科書で見たことのある地方の名前が並んでいる。けれど。
「ええと、……アローラ、は……」
サナの指先が、地図の上で迷子になったようにウロウロと泳ぐ。
見つからない。そもそも、アローラがどの地方に近くて、どれくらいの大きさなのかさえ、頭の中に全くイメージが湧いてこないのだ。カントーから飛行機に乗せられて、気づけばこの研究所のベッドにいた。ただそれだけだった。
「……ごめんなさい、博士。私、アローラがどこにあるのか……全然わかりません」
「ハハ、気にするな! 最初はみんなそんなもんだぜ。じゃあ、サナが育ったカントー地方はどこにある?」
「カントー、は……ここ、かな?」
サナは自信なさげに、慣れ親しんだ形の島を指さした。それは見事に、まったく別のホウエン地方だった。
ククイの表情が一瞬、あッ、という風に固まったのを、サナは見逃さなかった。
博士はすぐに「いやいや、惜しい! ホウエンも海が綺麗だから間違えやすいよな!」と明るくフォローしてくれたけれど、サナの心には、冷たい氷水を一気に浴びせられたような衝撃が走っていた。
(私……カントーの場所すら、間違えた……?)
絶望の波が、一気につま先から押し寄せてくる。
体調が悪く、幼い頃からまともに学校に通えなかった。それは事実だ。けれど、まさか自分が、小学校で習うような世界の常識すら、何一つ身につけていないなんて思いもしなかった。
アローラがどこにあるかも知らない。
自分が育った故郷の場所すらわからない。
他のスクール生たちがポケモンバトルや進化の法則について熱弁している中、自分はそれ以前の、生きるためのスタートラインにすら立てていないのだ。
「私……本当に、何も知らないんだ……」
ポツリと溢れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「サナ?」
「漢字もまともに読めないし、計算だって他の子みたいに早くできない。アローラがどこかも分からないなんて……私、留学生なんて大層な名前だけで、本当はただの、頭の悪い、お荷物なだけじゃないですか……っ!」
ノートを握りしめる指先が、情けなさで激しく震える。
ククイがこんなに時間を割いて、つきっきりで家庭教師みたいに教えてくれているのに、自分はあまりにも無知で、空っぽで、教える価値すらない存在に思えて仕方がなかった。こんな常識のない人間を相手にさせている申し訳なさと、自身の不甲斐なさに、視界が涙で滲んでいく。
ククイは手にしていたペンを置くと、椅子をサナのすぐ目の前まで引き寄せた。
そして、逃げようとする彼女の両肩を、大きな手でしっかりと、けれど優しく包み込む。
「サナ。俺の目をちゃんと見てごらん」
低く、けれど心に真っ直ぐ届く声。サナがおそるおそる涙目を見開くと、ククイはサングラスを外し、温かな瞳で彼女をじっと見つめていた。
「いいかい、サナ。学校に行けなかった君が、地方の場所を知らないのは『当然』のことだ。それは君が悪いんじゃない。学ぶ機会がなかった、ただそれだけだぜ」
「でも……博士に、迷惑を……」
「迷惑なもんか! むしろ俺は今、めちゃくちゃワクワクしてるんだ。だって、アローラがどこにあるか知らないってことは、これからアローラの素晴らしさを、君の真っ白な心に一番乗りで教え込めるってことだろう?」
ククイは悪戯っぽく笑い、サナの涙を白衣の袖でそっと拭った。
「カントーの場所を間違えたっていいさ。今日から俺と一緒に、一つずつ覚えていけばいい。常識なんてものは、これからいくらでも作っていける。サナは何も恥じる必要はないんだ。……な? 『お荷物』なんて、二度と自分をいじめるような言葉は使うなよ」
大きな掌が、サナの頭を優しく、何度も撫でる。
その温もりに包まれているうちに、自分の「無知」が、決して罪ではないのだと教えられている気がした。
「……博士。私、本当に……覚えられるかな」
「ああ、保証するぜ。俺はこれでも、最高に教え上手な『ククイ博士』だからな! よし、それじゃあ1時間目のやり直しだ。まずはアローラとカントーの位置を、俺と一緒に地図に特大の丸をつけるところから始めよう!」
ククイの力強い言葉に、サナは涙を流しながらも、小さく、けれど確かに頷いた。空っぽだった彼女の世界に、ククイの手によって、新しい地図が少しずつ描かれようとしていた。