世界一優しい私の主治医
研究所の窓の外は、静かな真夜中の帳に包まれていた。
リビングのソファで、サナは膝を抱えて小さく丸まっていた。目の前のローテーブルには、ククイが彼女のために作った特製のスープが、半分以上残されたまま冷めかけている。
「……ごめんなさい、博士。せっかく作ってくれたのに」
サナの声は掠れ、ひどく落ち込んでいた。
今日は少しだけ体調が良い気がして、お腹も空いているような感覚があった。だから「食べたい」と思ってスプーンを口に運んだのだ。けれど、ほんの数口、食べたいと感じるままに飲み込んだ途端、胃がひっくり返るような激しい吐き気が彼女を襲った。
食べたいのに、身体がそれを受け付けない。
「謝るな、サナ。一口でも食べられたなら、それで十分だぜ」
ククイは優しく声をかけ、器を片付けると、彼女を休ませるためにロフトのベッドへと運んだ。
横になれば、少しは楽になるはずだった。
ククイは枕元に腰掛け、彼女が眠りにつくまでいつものように付き添おうとした。サナも、早くこの不快感から逃れたくて、強く瞼を閉じる。
しかし、一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、サナの意識は一向に遠ざからなかった。
疲労は限界のはずなのに、脳の芯だけが妙に冴え渡り、ベッドのシーツの擦れる音さえも耳障りに響く。眠りたいのに、暗闇が彼女を拒絶するように、どうしても眠りの世界へ入れないのだ。
「……っ、……うう……」
やがて、サナの目から我慢の限界を超えた涙が溢れ出した。
一度溢れた涙は止まらず、彼女はシーツに顔を押し当てて、嗚咽を漏らし始めた。
「サナ? どうした、どこか痛むのか!?」
ククイが慌てて彼女の身体を起こし、その細い肩を支える。
「わからない……わからないの、博士……っ!」
サナはククイの白衣の胸元にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「食べたいと思って食べたのに、気持ち悪くなっちゃう……。眠りたいと思って横になってるのに、全然眠れない……! 私の身体なのに、どうして私の言うことを何も聞いてくれないの……? 今、お腹が空いてるのか、眠いのか、それともどこが悪いのか……自分でも、自分の身体が全然わからないの……っ!!」
それは、慢性的な病の波に翻弄され続けてきた彼女の、魂からの悲鳴だった。
生きるための基本的な欲求さえも、自分の意志でコントロールできない。自分の肉体が、まるで自分を裏切り続ける不条理な乗り物のように思えて、恐怖と悔しさで胸が張り裂けそうだった。
「もう嫌だよ……。こんな身体、どうすればいいの……っ」
ククイは何も言わず、泣き叫ぶサナの身体を、折れてしまいそうなほど強く、けれどどこまでも優しく抱きしめた。
彼の大きな掌が、激しく上下する彼女の背中を、規則正しいリズムで何度も、何度もさする。
「……怖かったな、サナ。自分の身体なのに、コントロールがきかない恐怖は、どれほどのものか……俺には想像もつかない」
ククイの声は、低く、深く、サナの耳元に響いた。
「いいかい、サナ。わからないままでいいんだ。自分の身体のことがわからなくなったら、その時は、俺が代わりに君の身体の声を聴く。何時に眠れて、何が何口食べられたか、俺が全部記録して、全部管理してやるから」
「はか、せ……っ……」
「君が自分の身体を信じられなくなっても、俺が君の命を信じている。食べられなかったら、次はもっと消化にいいものを作ればいい。眠れなかったら、夜が明けるまでこうして抱きしめててやる。だから、自分を責めるな」
ククイは彼女の涙で濡れた髪にそっと唇を寄せ、その震えを包み込むように腕に力を込めた。
「君の身体は、君をいじめてるんじゃない。病気と戦うために、必死で混乱しながらも、生きようと頑張ってるんだぜ。……独りで戦わせないさ。俺が一緒に、君の身体のペースに合わせて歩いていくからな」
博士の胸から伝わる温もりと、揺るぎない言葉。
自分の身体がわからなくなってしまった恐怖の暗闇の中で、ククイという存在だけが、サナにとって唯一の、そして絶対にブレない錨(いかり)だった。
サナは彼の胸に顔を埋めたまま、小さな子供のように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。ククイはその涙が枯れ、彼女の身体から完全に力が抜けるまで、その温かな腕を緩めることはなかった。
リビングのソファで、サナは膝を抱えて小さく丸まっていた。目の前のローテーブルには、ククイが彼女のために作った特製のスープが、半分以上残されたまま冷めかけている。
「……ごめんなさい、博士。せっかく作ってくれたのに」
サナの声は掠れ、ひどく落ち込んでいた。
今日は少しだけ体調が良い気がして、お腹も空いているような感覚があった。だから「食べたい」と思ってスプーンを口に運んだのだ。けれど、ほんの数口、食べたいと感じるままに飲み込んだ途端、胃がひっくり返るような激しい吐き気が彼女を襲った。
食べたいのに、身体がそれを受け付けない。
「謝るな、サナ。一口でも食べられたなら、それで十分だぜ」
ククイは優しく声をかけ、器を片付けると、彼女を休ませるためにロフトのベッドへと運んだ。
横になれば、少しは楽になるはずだった。
ククイは枕元に腰掛け、彼女が眠りにつくまでいつものように付き添おうとした。サナも、早くこの不快感から逃れたくて、強く瞼を閉じる。
しかし、一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、サナの意識は一向に遠ざからなかった。
疲労は限界のはずなのに、脳の芯だけが妙に冴え渡り、ベッドのシーツの擦れる音さえも耳障りに響く。眠りたいのに、暗闇が彼女を拒絶するように、どうしても眠りの世界へ入れないのだ。
「……っ、……うう……」
やがて、サナの目から我慢の限界を超えた涙が溢れ出した。
一度溢れた涙は止まらず、彼女はシーツに顔を押し当てて、嗚咽を漏らし始めた。
「サナ? どうした、どこか痛むのか!?」
ククイが慌てて彼女の身体を起こし、その細い肩を支える。
「わからない……わからないの、博士……っ!」
サナはククイの白衣の胸元にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「食べたいと思って食べたのに、気持ち悪くなっちゃう……。眠りたいと思って横になってるのに、全然眠れない……! 私の身体なのに、どうして私の言うことを何も聞いてくれないの……? 今、お腹が空いてるのか、眠いのか、それともどこが悪いのか……自分でも、自分の身体が全然わからないの……っ!!」
それは、慢性的な病の波に翻弄され続けてきた彼女の、魂からの悲鳴だった。
生きるための基本的な欲求さえも、自分の意志でコントロールできない。自分の肉体が、まるで自分を裏切り続ける不条理な乗り物のように思えて、恐怖と悔しさで胸が張り裂けそうだった。
「もう嫌だよ……。こんな身体、どうすればいいの……っ」
ククイは何も言わず、泣き叫ぶサナの身体を、折れてしまいそうなほど強く、けれどどこまでも優しく抱きしめた。
彼の大きな掌が、激しく上下する彼女の背中を、規則正しいリズムで何度も、何度もさする。
「……怖かったな、サナ。自分の身体なのに、コントロールがきかない恐怖は、どれほどのものか……俺には想像もつかない」
ククイの声は、低く、深く、サナの耳元に響いた。
「いいかい、サナ。わからないままでいいんだ。自分の身体のことがわからなくなったら、その時は、俺が代わりに君の身体の声を聴く。何時に眠れて、何が何口食べられたか、俺が全部記録して、全部管理してやるから」
「はか、せ……っ……」
「君が自分の身体を信じられなくなっても、俺が君の命を信じている。食べられなかったら、次はもっと消化にいいものを作ればいい。眠れなかったら、夜が明けるまでこうして抱きしめててやる。だから、自分を責めるな」
ククイは彼女の涙で濡れた髪にそっと唇を寄せ、その震えを包み込むように腕に力を込めた。
「君の身体は、君をいじめてるんじゃない。病気と戦うために、必死で混乱しながらも、生きようと頑張ってるんだぜ。……独りで戦わせないさ。俺が一緒に、君の身体のペースに合わせて歩いていくからな」
博士の胸から伝わる温もりと、揺るぎない言葉。
自分の身体がわからなくなってしまった恐怖の暗闇の中で、ククイという存在だけが、サナにとって唯一の、そして絶対にブレない錨(いかり)だった。
サナは彼の胸に顔を埋めたまま、小さな子供のように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。ククイはその涙が枯れ、彼女の身体から完全に力が抜けるまで、その温かな腕を緩めることはなかった。