世界一優しい私の主治医

アローラの夏休みが、もうすぐ終わろうとしていた。

窓の外からは、相変わらず遮るもののない眩しい太陽の光と、元気なセミたちの声が聞こえてくる。しかし、研究所のロフトに広がる光景は、その賑やかさとはあまりにもかけ離れていた。

サナの机の上には、夏休み前にスクールから配られた宿題のプリントや課題図書が、配られた時の綺麗な状態のまま、手つかずで積み上げられている。

サナには、その一文字すら開く気力がなかった。
この夏休み中、彼女の身体を襲った体調の波は、これまでで最も苛烈なものだったからだ。

起き上がることすらままならず、一日の大半をただベッドの中で横たわり、天井を見つめて過ごす日々。高熱に浮かされ、全身の関節の痛みに耐え、激しい目眩に視界を奪われる。食事を一口飲み込むことすら大仕事で、今のサナにとっては、ただ「生きていること」「呼吸を続けていること」それ自体が、全精力を注ぎ込まなければ達成できない限界の戦いだった。

(宿題……ひとつも、できなかったな……)

ぼんやりとした視界で、机の上の白い紙の束を見つめる。
スクールのみんなは今頃、宿題を全部終わらせて、残りの夏休みを思いきり楽しんでいるのだろう。カキやマオ、みんなの弾けるような笑顔が脳裏をよぎる。それに引き換え、自分は――。

「……サナ、入るぞ。夕方の検温の時間だ」

静かに扉が開き、ククイが盆を手に部屋に入ってきた。
サナは情けなさと罪悪感で、咄嗟に毛布を頭まで引き上げようとした。しかし、そのわずかな動作だけで息が乱れ、激しく咳き込んでしまう。

「おいおい、無理をするな」

ククイは慌てて盆を置くと、ベッドの傍らに腰掛け、サナの背中を優しくさすった。彼の大きな掌から伝わる温もりが、痛む胸を少しだけ楽にしてくれる。

「……ごめんなさい、博士」
サナは掠れた声で、消え入りそうに呟いた。

「何がだい?」

「宿題……スクールの宿題、ひとつも……手をつけてなくて。もうすぐ夏休みが終わるのに、私、何にもできなくて……」

涙が、熱い肌を伝って枕に染み込んでいく。みんなと同じように過ごしたいと願って留学生になったのに、結局、ただベッドの上で息をしているだけで夏休みが終わってしまう。自分の不甲斐なさが、悔しくてたまらなかった。

そんなサナの言葉を聞いて、ククイはしばらく何も言わずに彼女の泣き顔を見つめていた。
そして、深く、包み込むような溜息をつくと、彼女の涙を大きな指先でそっと拭った。

「サナ、こっちを見てごらん」

促されて視線を上げると、そこには怒るどころか、これ以上ないほど優しい眼差しをしたククイがいた。彼は机の上の手つかずの宿題を一瞥(いちべつ)し、それからまたサナに視線を戻す。

「いいかい、サナ。この夏休み、君はちっともサボってなんかいない。むしろ、誰よりも過酷な大仕事をやり遂げたんだぜ」

「え……?」

「これだけの嵐(体調不良)の中で、毎日毎日、必死に呼吸を繋いで、生きて、俺の目の前でこうして笑ってみせてくれた。……それはな、スクールのどんな難しい宿題を終わらせるよりも、ずっと、ずうっと凄くて価値のあることなんだ」

ククイはサナの頭を、壊れ物を扱うように愛おしそうに撫でる。

「だから、今年のサナの夏休みの宿題は、今こうして俺の隣で生きてくれている時点で『100点満点』だ。花丸を三個つけても足りないくらいさ」

「博士……」

「スクールの提出物なんて、担任の俺がどうとでも融通を利かせてやる。そんなことのために、君の貴重な体力を1ミリだって使わせるわけにいかないからな」

ククイは悪戯っぽく笑うと、持ってきた温かいスープの器を差し出した。
「さあ、100点満点の生徒へのご褒美だ。これを食べて、まずはゆっくり休もう。夏休みが終わったって、アローラの太陽は逃げやしないんだからな」

その言葉に、サナの胸の奥に溜まっていた重苦しい塊が、じんわりと溶けていく。
ただ息をしているだけでいい。生きていてくれるだけでいい――。ククイが全肯定してくれたその事実が、サナの傷ついた心に、何よりの救いとなって染み渡っていった。
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