世界一優しい私の主治医

昨日までの元気な姿が嘘のように、サナの瞳にまた、あの濃い怯えの色が混ざり始めていた。
リビングのソファに腰掛けた彼女は、小さく胸元をかきむしるようにして、浅く速い呼吸を繰り返している。

「……はか、せ……おねがい、たすけて……」

ククイが駆け寄ると、サナは縋りつくようにその大きな腕を掴んできた。指先が真っ白になるほど、強い力がこもっている。

「どうした、サナ。どこが苦しい?」

「息が……息の仕方が、わからなくなっちゃったの……。心臓が、ずっとドクドクして……どうしよう、何秒おきに息を吸うのが正しいの……? どれくらい吐けば、いいの……?」

過換気、あるいは心因性のパニック。元気に過ごせていた反動の恐怖が、彼女の自律神経を一狂わせているのだ。涙をためて、過呼吸気味に問い詰めてくるサナの表情は真剣そのものだった。

「何秒吸って、何秒吐けばいいの……? 正しいやり方を教えて、博士……!」

医学的にも、あるいは生物学的にも、呼吸の秒数に絶対の「正解」などない。個人の肺活量やその時の心拍数によって最適なリズムは異なるからだ。しかし、今のパニック状態にあるサナに「正解はない」と突き放すのは、荒波の中に羅針盤なしで放り出すのと同じことだった。

(正解がないのなら、俺が君の『道標』になってやる)

ククイはサナの小さな両手を自分の大きな掌で包み込み、視線をまっすぐに合わせた。

「大丈夫だ。よく聞いてくれ、サナ。呼吸の基本のカウントを教えるぜ」

「……かう、んと……?」

「ああ。まずは、**4秒**かけて鼻からゆっくり息を吸うんだ。いくぞ、1、2、3、4……」

ククイは自らも大きく胸を膨らませ、サナにお手本を見せるように息を吸い込んだ。サナは必死に彼の胸の動きを追いながら、掠れた息を吸い込む。

「そう、上手だ。そしたら次は、少しだけ息を止めて……今度は**6秒**かけて、口から細く長く吐き出すんだ。5、4、3、2、1……」

ククイは自身の口元をすぼめ、サナの顔にそっと温かい息を吹きかけるようにして、ゆっくりと息を吐き出させた。

「吸うのよりも、吐くのを少しだけ長くする。これがアローラの、……いや、俺のスクールの一番正しい呼吸のプロトコルだ。もう一回いくぞ。4秒で吸って……」

「……1、2……3……4……」

「そう、いい子だ。次は6秒で吐くんだ。……5、4、3、2、1」

ククイは何度も、何度も、同じ秒数を数え続けた。
単なる数字のカウントではない。それはサナの暴走しそうな意識を、この世界に繋ぎ止めるための命のグリッド線だった。

彼の低く、揺るぎない声に合わせて呼吸を繰り返すうちに、サナの激しい動悸は少しずつ凪いでいった。浅かった呼吸に深さが戻り、手のひらの冷たさが和らいでいく。

「……はかせ……」

「落ち着いたかい? よく頑張ったな、サナ。合格点だ」

ククイは数えるのをやめると、サナの頭を優しく胸へと引き寄せた。

「呼吸なんて、本当は適当でいいんだ。もしまた分からなくなったら、何度でも俺が数えてやる。俺の心音に合わせて息をしてくれれば、それがいつだって君の『正解』だからな」

サナはククイの胸に耳を押し当て、トクン、トクン、と刻まれる確かなリズムを聴きながら、今度は自分の意思で、深く、静かに息を吐き出した。
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