世界一優しい私の主治医

研究所のリビングに、ぽつり、ぽつりと涙が床を濡らす音が響いていた。

最初は、静かな涙だった。サナはソファの片隅で膝を抱え、ただ声を殺して泣いていた。
ククイがその異変に気づいたのは、彼女が泣き始めてからずいぶんと時間が経ってからのことだった。キッチンから片付けを終えて戻ってきた彼は、肩を激しく震わせ、今にも過呼吸になりそうなほどに涙を流し続けるサナの姿を見て、持っていたトレイを投げ出すようにして駆け寄った。

「サナ!? どうした、どこか痛むのか? 急に熱が上がったかい!」

慌てて彼女の身体を支えようとするが、サナはただ首を横に振るばかりで、言葉にならない嗚咽を漏らすだけだった。ククイは彼女を落ち着かせるように、大きな背中を何度も、何度も優しくさすり続けた。

やがて、呼吸が少しずつ整ってきた頃、サナは彼の白衣の裾を握りしめたまま、蚊の鳴くような声でようやく理由を口にした。

「……さびしくて……っ、急に、怖くなって……」

「寂しい?」

ククイは眉を下げた。彼はいつもこの研究所にいるし、今日も一日、彼女のそばを離れなかったはずだ。それでも押し寄せてきたという「寂しさ」の正体――。サナの潤んだ瞳の奥にある、底知れない孤独の深さを覗き込んだ瞬間、ククイの胸に鋭い痛みが走った。

それもそのはずだった。
この小さな少女は、アローラへ来るまでに、あまりにも多くの傷を負いすぎていた。

病気が治らないという理由だけで、実の両親からは「いらない子」として見捨てられた。その後を任された数々の大人たちも、彼女の繊細な心と病状に手を焼き、最後には「これ以上は無理だ」と匙を投げた。ある者は冷淡に突き放し、ある者は腫れ物のように扱い、彼女の心を何度も、何度も踏みにじってきたのだ。

『どうせこの人も、いつかは私に愛想を尽かしてどこかへ行ってしまうんじゃないか』

今、目の前でこれほど優しくしてくれるククイへの愛着が深まれば深まるほど、過去のトラウマが鎌首をもたげ、「捨てられる恐怖」としての寂しさが彼女を襲う。

(俺は……なんて浅はかだったんだ)

ククイは己の不甲斐なさを激しく呪った。ただ体調を管理し、一緒に過ごすだけでは足りなかったのだ。彼女が求めているのは、一時的な滞在場所ではなく、何があっても揺るぎない「心の安全基地」だった。

今、この世界でサナの凍えた魂を繋ぎ止め、彼女の衣食住からその命のすべてを背負っている大人は、自分しかいない。
ククイの胸の奥で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。
彼は「一人の研究者」や「親切な居候先のおじさん」という生ぬるい立場を完全に捨て去り、自分がサナの「世界で唯一の保護者」であるという絶対的な事実を、深く、重く、自覚した。

「……サナ」

ククイはもう一度、今度は彼女の身体が壊れてしまわないよう、それでいて絶対に離さないという強い意志を込めて、その小さな身体を強く抱きしめた。

「怖がらせてごめんな。寂しい思いをさせて、本当にごめん」

「はか、せ……私、また、めいわくを……」

「迷惑なもんか。いいかい、サナ。よく聞いてくれ」

ククイはサナの顔を包み込み、泣き腫らしたその目を真っ直ぐに見つめた。サングラスを外し、一人の男としての、嘘偽りのない本気の眼差しを彼女にぶつける。

「これまでの大人たちが君に何をしてきたか、俺には関係ない。だが、俺は違う。俺は絶対に君に匙を投げないし、君を見捨てたりもしない。君がどんなに泣いても、どれだけ病気で動けなくなっても、俺はここにいる」

「……本当、に……?」

「ああ。俺の命に代えても約束する。君の帰る場所は、これからずっと俺の隣だ。俺が君の『家族』になってやる。だから、もう独りで寂しさに怯えなくていいんだぜ」

その言葉は、サナの心の最深部にあった氷を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていった。
サナは再び声を上げて泣き出したが、今度の涙には、先ほどまでの冷たい絶望は混ざっていなかった。ククイは彼女が泣き止むまで、その小さな背中を抱きしめ続け、彼女の人生を丸ごと守り抜く覚悟を、アローラの静かな夜に誓った。
69/113ページ
スキ