世界一優しい私の主治医

「泳いでみたいな、私。……あの海で」

サナが窓の外の砂浜を見つめながら、ぽつりと呟いたその一言を、ククイは見逃さなかった。
とはいえ、まだ病み上がりの彼女をいきなり外の海へ連れていくわけにはいかない。ククイが少し考え込んでから思いついたのは、研究所のバスルームを使った、彼なりの「特別水泳訓練」だった。

「よし、それじゃあまずは、この『特設プール』から始めてみようぜ」

ククイは浴室のバスタブにぬるめの湯を張り、その中にプラスチック製の椅子を沈めた。
サナは水着に着替え、不思議そうな顔をしながらその椅子に腰掛ける。湯の深さは彼女の胸のあたりまでだ。

「いいか、サナ。水泳の基本はまずバタ足だ。椅子の背もたれをしっかり掴んで、身体を浮かせるようにして足を動かしてみるんだ」

「こう、ですか……?」

サナは恐る恐るバスタブの縁と椅子を掴み、水面下で両足を伸ばした。そして、おそるおそる交互に上下に動かし始める。
チャプ、チャプと、狭いバスタブの中に小さな水音が響いた。

ほんの数回、距離にしてわずか数十センチの空間で足をパタパタと動かした、その直後だった。

「……っ! ……あ、いた、たた……っ」

サナの顔が一瞬で引き攣り、動きがピタリと止まる。
「サナ!? どうした!」

「あし……、足が、きゅーって……攣(つ)りそう、です……」

サナは情けない声を上げながら、慌てて足を縮めて椅子の上へ体育座りのように丸まった。
ほんの少し水を蹴っただけだというのに、彼女の細いふくらはぎの筋肉はピキピキと硬く強張ってしまっている。長期間のベッド生活で、彼女の筋力は想像以上に衰えていた。

ククイはすぐにバスタブの横に膝をつき、お湯の中に手を伸ばして彼女の小さな足をそっと引き寄せた。

「無理をするな。力を抜いて、俺に預けろ」

ククイは大きな掌で、強張ったサナのふくらはぎをやわらかく揉みほぐしていく。お湯の温かさと彼のマッサージによって、ようやく筋肉の緊張が解けていくと、サナはハァハァと激しい息を吐きながら、椅子の背もたれにぐったりと体重を預けた。

「……はぁ、……っ。泳ぐのって、こんなに、体力がいるんですね……」

サナの額には、お湯の熱気だけではない、冷や汗がびっしりと浮かんでいた。息は絶え絶えで、肩が大きく上下している。

「私……本当に、まだまだ、だなぁ……。海に行くなんて、夢のまた夢、ですね……」

自分の身体のあまりの不甲斐なさに、サナの声音には隠しきれない落胆と悲しみが混ざっていた。

ククイはマッサージを止め、濡れた自分の手をタオルの端で拭うと、彼女の青白い顔を覗き込んだ。サングラスの奥の瞳には、明らかな心配の色が浮かんでいる。

「サナ、そんなに落ち込むことはないさ。水の中はな、陸の上の何倍も身体に負荷がかかるんだ。健康な奴だって、久々に泳げばすぐに足が攣る」

ククイは彼女の濡れた髪を優しくかき上げ、安心させるように声を低くした。

「焦る必要はどこにもない。今日は数回、水を蹴ることができた。立派な第一歩だぜ。……よし、今日の水泳部の活動はここまで! 保健室の先生として、これ以上の続行は不許可だ」

「ふふ……、厳しい、先生ですね……」

「当たり前だろ? 生徒の安全が第一だからな。さあ、冷えないうちにちゃんとお風呂に浸かって、上がったら特製のスポーツドリンクを飲もう」

ククイは彼女の頭をポンポンと叩き、浴室の温度を少し上げた。
息を整えるサナの横顔を見つめながら、ククイは心の中で、彼女の体力を少しずつ、本当に少しずつ戻していくためのメニューを静かに組み立て直していた。彼女がいつかあの本当の青い海へ飛び込めるその日まで、何度でも、いくらでも付き合うつもりだった。
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