世界一優しい私の主治医

その日のサナは、心が完全にすり減ってしまっていた。

理由なんてない。ただ、病気の不安や孤独が限界を超え、精神のバランスが崩れてしまったのだ。ベッドの中で丸くなり、サナはただ、しゃくり上げるように泣くことしかできなかった。

ククイはそんな彼女の様子を見ると、何も言わずに椅子を引き寄せ、すぐ傍らに腰掛けた。
彼女が今、正論や慰めの言葉ではなく、ただ「ここに誰かがいてくれること」を求めているのを、ククイは痛いほど分かっていた。だから、大きな掌で彼女の背中をゆっくりと、一定のリズムでさすり続ける。

「う、ぅ……、ひっ……、……」

何時間そうしていただろうか。
やがて涙が少しだけ引いた頃、サナはククイの白衣の裾を掴んだまま、掠れた声でポツリと呟いた。

「……博士。……パンケーキ、作って」

この状況で、しかも夕食をとうに過ぎた真夜中だ。普通なら「こんな時間に?」と困惑するような我が儘だったが、ククイはサングラスの奥の目を優しく細めた。

「パンケーキかい? いいぜ。特大のやつに、甘いシロップをたっぷりかけてやるからな」

「……あと、本も読んで。……アローラの難しい伝承のやつ」

泣き腫らした目で、サナはさらに無理難題を重ねる。自分で読むには退屈で頭が痛くなるような本だ。それを今から読み聞かせろと言う。彼女自身、自分がククイを困らせるようなことばかり言っている自覚はあった。試すように、困った顔が見たくて、理不尽な要求をぶつけている。

けれど、ククイは困るどころか、楽しそうにクスクスと喉を鳴らした。

「お安い御用だ。じゃあ、まずはキッチンで特製パンケーキを焼いてくる。サナはその間に、読んでほしいページを開いて待っててくれ」

ククイが立ち上がり、一階のキッチンからやがて、甘い香ばしい匂いが漂ってきた。カチャカチャとフライパンが鳴る音、バターが溶ける音。その生活の音が、サナの張り詰めていた心を少しずつ緩めていく。

しばらくして、ククイは本当に綺麗な黄金色のパンケーキと、一冊の古い本を抱えて戻ってきた。

「ほら、おまちかねのパンケーキだぜ。冷めないうちに一口食べようか」

サナが小さく口を開けると、ククイは小さく切ったパンケーキをフォークで優しく口元へと運んでやる。蜂蜜の甘さが広がると同時に、また涙がじんわりと溢れてきた。

「……本当、に……なんでも言うこと聞いてくれるんですね…」

「当たり前だろ? 俺はサナの先生で、主治医で……ここにいる間の、君の家族なんだからな」

ククイはベッドの端に腰掛け、サナがパンケーキを飲み込むのを見届けると、サイドテーブルから『アローラの古い伝承』を手に取った。そして、彼女の頭を自分の肩に引き寄せ、大きな手でゆっくりと本を開く。

「それじゃあ、15ページ目からだな。……『昔々、アローラの海がまだ今よりもずっと青く、深く、静かだった頃。島々を守るカプたちは……』」

ククイの低く、穏やかな声が、静かな部屋に響き渡る。
何を言っても、どんなに困らせようとしても、この人は絶対に怒らないし、突き放さない。その圧倒的な包容力に包まれて、サナは彼の胸にそっと体重を預けた。

どれだけ心が荒れても、この腕の中にいれば、自分は絶対に壊れない。
ククイの朗読を心地よい子守唄代わりに聞きながら、サナは今度こそ、穏やかな眠りの中へと落ちていった。
66/113ページ
スキ