世界一優しい私の主治医
【カルテ:深夜】
状態: 聴覚過敏による不安増幅。
身体: 軽度の悪寒、および四肢の冷え。
精神: 孤独感の深化。
「……っ、……ごほっ、……はぁ、……っ」
サナはオレンジの花柄シャツの胸元を握り、布団の中に潜り込んだ。
雨の日はいつもより空気が重く、肺が膨らむのを邪魔しているような気がする。ククイは階下で明日の学会の準備をしているはずだ。邪魔をしてはいけない。そう思えば思うほど、サナの心は「世界に自分一人しかいない」ような闇に沈んでいく。
自分を律しようと唇を噛んだその時、階段を軋ませる、いつもの頼もしい足音が聞こえてきた。
「サナ。……雨の音で、眠れないか?」
ククイが、温かいミルクの入ったマグカップを手に現れた。彼はサナが声を上げる前に、その「静かすぎる拒絶」の気配を察していた。
「……あ、……ククイ、博士……。……お仕事、……いいんですか……?」
「あぁ。論文の続きより、君の『今夜の眠り』の方が、俺にはずっと大事なテーマだからな」
ククイはベッドの脇に腰を下ろし、サナの細い手のひらを毛布の上から包み込んだ。サナは、博士の掌が少しだけ紙の匂いがすることに気づき、それだけで胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……博士。……雨の音が、……私を呼んでるみたいで……こわいんです。……どこか、遠いところに……連れていかれそうで……」
「……そうか。なら、俺と『契約』を結ぼう」
ククイはそう言うと、包み込んでいた手の中から、自分の小指だけを差し出した。
「いいか、サナ。この小指を俺の指に絡めておけ。……もし雨が君を連れ去ろうとしても、俺がこうして錨(いかり)になって、君をこの場所に繋ぎ止めておく」
サナはためらいながらも、自分の小さな小指を、ククイの大きな小指に絡めた。
骨ばった、けれど熱いほどの体温を持った博士の指。その確かな感触が、嵐の中に放り出されていた彼女の心を、一瞬で「研究所」という安全な港へと引き戻した。
「……ふふ、……ゆびきり、げんまん……ですね」
「あぁ。嘘をついたら、俺がアローラ中を走って君を連れ戻しに行く。……だから安心して、俺に捕まったまま眠りなさい」
サナは博士と小指を繋いだまま、ゆっくりと目を閉じた。
不思議なことに、あれほど不快だった雨音が、今は博士の奏でるリズムの一部のように、心地よい子守唄へと変わっていく。
ククイは自由な方の手で、枕元のカルテに静かに書き加えた。
『外部環境の変化(雨)による情緒不安定を確認。
身体的な固定(指切り)により、心理的な安全圏を確保。
彼女にとっての「薬」は、もはや化学物質だけではない。
「誰かと繋がっている」という原始的な安心感が、今夜の彼女の呼吸を一番深く支えている。』
窓を叩く雨はまだ止まない。
けれど、小指から伝わる一定の拍動を道標に、サナは今夜、一度も目を覚ますことなく深い眠りへと落ちていった。
状態: 聴覚過敏による不安増幅。
身体: 軽度の悪寒、および四肢の冷え。
精神: 孤独感の深化。
「……っ、……ごほっ、……はぁ、……っ」
サナはオレンジの花柄シャツの胸元を握り、布団の中に潜り込んだ。
雨の日はいつもより空気が重く、肺が膨らむのを邪魔しているような気がする。ククイは階下で明日の学会の準備をしているはずだ。邪魔をしてはいけない。そう思えば思うほど、サナの心は「世界に自分一人しかいない」ような闇に沈んでいく。
自分を律しようと唇を噛んだその時、階段を軋ませる、いつもの頼もしい足音が聞こえてきた。
「サナ。……雨の音で、眠れないか?」
ククイが、温かいミルクの入ったマグカップを手に現れた。彼はサナが声を上げる前に、その「静かすぎる拒絶」の気配を察していた。
「……あ、……ククイ、博士……。……お仕事、……いいんですか……?」
「あぁ。論文の続きより、君の『今夜の眠り』の方が、俺にはずっと大事なテーマだからな」
ククイはベッドの脇に腰を下ろし、サナの細い手のひらを毛布の上から包み込んだ。サナは、博士の掌が少しだけ紙の匂いがすることに気づき、それだけで胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……博士。……雨の音が、……私を呼んでるみたいで……こわいんです。……どこか、遠いところに……連れていかれそうで……」
「……そうか。なら、俺と『契約』を結ぼう」
ククイはそう言うと、包み込んでいた手の中から、自分の小指だけを差し出した。
「いいか、サナ。この小指を俺の指に絡めておけ。……もし雨が君を連れ去ろうとしても、俺がこうして錨(いかり)になって、君をこの場所に繋ぎ止めておく」
サナはためらいながらも、自分の小さな小指を、ククイの大きな小指に絡めた。
骨ばった、けれど熱いほどの体温を持った博士の指。その確かな感触が、嵐の中に放り出されていた彼女の心を、一瞬で「研究所」という安全な港へと引き戻した。
「……ふふ、……ゆびきり、げんまん……ですね」
「あぁ。嘘をついたら、俺がアローラ中を走って君を連れ戻しに行く。……だから安心して、俺に捕まったまま眠りなさい」
サナは博士と小指を繋いだまま、ゆっくりと目を閉じた。
不思議なことに、あれほど不快だった雨音が、今は博士の奏でるリズムの一部のように、心地よい子守唄へと変わっていく。
ククイは自由な方の手で、枕元のカルテに静かに書き加えた。
『外部環境の変化(雨)による情緒不安定を確認。
身体的な固定(指切り)により、心理的な安全圏を確保。
彼女にとっての「薬」は、もはや化学物質だけではない。
「誰かと繋がっている」という原始的な安心感が、今夜の彼女の呼吸を一番深く支えている。』
窓を叩く雨はまだ止まない。
けれど、小指から伝わる一定の拍動を道標に、サナは今夜、一度も目を覚ますことなく深い眠りへと落ちていった。