世界一優しい私の主治医
アローラの午後は、あまりにも鮮やかだった。
ククイが「少し気分転換をしよう」と、車椅子を研究室の巨大な水槽の前まで運んでくれた。そこには、桃色の体をしたラブカスたちが、重力など忘れたかのように自由自在に、クリスタルのような水の中を泳ぎ回っていた。
【観察記録:午後】
状態: 視覚的刺激による内省的沈鬱(リフレクティブ・ディプレッション)。
症状: 視線の固定、および自律神経の乱れに伴う微細な震え。
分析: 水槽内の「自由な生命力」を目の当たりにしたことで、自身の「身体的拘束(病床)」を再確認してしまった状態。ククイの善意(気晴らしの提案)を無下にしてしまうことへの罪悪感が、さらに精神的な負荷を強めている。
(……あの子たちは、あんなに自由に、どこへでも行けるのに)
サナは、袖をぎゅっと握りしめ、ラブカスの滑らかな動きを追った。
自分は、ベッドから降りることさえままならず、一歩動けば怪我をし、熱が出れば誰かに助けを求めなければ生きていけない。
ラブカスたちが描く優雅な曲線が、今のサナには「健康」という名の、決して手の届かない境界線に見えてしまった。
「サナ、見てごらん。あの二匹、ずっと寄り添って泳いでるだろう。アローラでは、ラブカスを見つけると幸せになれるって言われてるんだぞ」
ククイが明るい声で解説を添えてくれる。その優しさが、今のサナには痛かった。
博士は忙しい時間を割いて、私を元気づけようとしてくれている。それなのに、私はこんなところで、魚と自分を比べて落ち込んでいる。
「……ごめんなさい、……はかせ……」
「サナ? どうした、気分が悪くなったか?」
ククイがすぐに顔を覗き込む。サナは首を横に振り、膝の上の白いパンツを涙で濡らさないよう、必死に目を伏せた。
「……せっかく、……見せてくれたのに。……あの子たちを見てたら、……わたし、……自分が、ちっぽけで……何にもできないんだなって、思っちゃって……。……最低ですよね、……はかせの優しさを、こんな気持ちにしちゃうなんて……」
サナの声は、自責の念で震えていた。
ククイは一瞬だけ、水槽の中で光るラブカスたちに目をやり、それから静かにサナの前に膝をついた。彼は、彼女の小さな震える手を、逃げ場を作るように優しく包み込んだ。
「サナ。……ラブカスが自由に泳げるのは、この水槽の中に、彼らを愛して守る『環境』があるからだ。……そして、君が今、ここで呼吸をして、心を通わせている。それは、泳ぎ回ることよりもずっと、生命として尊いことなんだぞ」
ククイはサナの視線を優しく促し、水槽ではなく、彼自身の瞳を見つめさせた。
「君はちっぽけなんかじゃない。……君という存在がここにいてくれるから、俺は毎日、新しい発見や、守りたいという強さを教えてもらっている。……申し訳ないなんて思うな。……ラブカスが水の中にいるように、君は俺の腕の中にいればいい。そこが、君が一番自由に、自分らしくいられる場所なんだからな」
『相対的な無力感と、過度な自責傾向を確認。
患者にとって、健康な生命体との接触は諸刃の剣となる。
主治医の役割は、比較による絶望を「存在そのものの肯定」へと変換することである。
……サナの指先から、少しずつ強張りが消えていく。
彼女が自分を「何もできない」と責めるたび、俺は何度でも、彼女が俺に与えてくれているものの大きさを語り続けよう。
水槽の魚よりも、何よりも、今ここで俺の手を握り返してくれる彼女の鼓動こそが、アローラで一番の奇跡なのだから。』
窓の外では、アローラの海がキラキラと輝き、研究所の壁に水面のような光を反射させていた。
サナは、ラブカスの自由さを少しだけ許せるようになった。
自分は泳げないけれど、博士という深い海に守られて、確かにここで生きている。その事実を、彼の掌の温もりから、ゆっくりと受け入れていった。
ククイが「少し気分転換をしよう」と、車椅子を研究室の巨大な水槽の前まで運んでくれた。そこには、桃色の体をしたラブカスたちが、重力など忘れたかのように自由自在に、クリスタルのような水の中を泳ぎ回っていた。
【観察記録:午後】
状態: 視覚的刺激による内省的沈鬱(リフレクティブ・ディプレッション)。
症状: 視線の固定、および自律神経の乱れに伴う微細な震え。
分析: 水槽内の「自由な生命力」を目の当たりにしたことで、自身の「身体的拘束(病床)」を再確認してしまった状態。ククイの善意(気晴らしの提案)を無下にしてしまうことへの罪悪感が、さらに精神的な負荷を強めている。
(……あの子たちは、あんなに自由に、どこへでも行けるのに)
サナは、袖をぎゅっと握りしめ、ラブカスの滑らかな動きを追った。
自分は、ベッドから降りることさえままならず、一歩動けば怪我をし、熱が出れば誰かに助けを求めなければ生きていけない。
ラブカスたちが描く優雅な曲線が、今のサナには「健康」という名の、決して手の届かない境界線に見えてしまった。
「サナ、見てごらん。あの二匹、ずっと寄り添って泳いでるだろう。アローラでは、ラブカスを見つけると幸せになれるって言われてるんだぞ」
ククイが明るい声で解説を添えてくれる。その優しさが、今のサナには痛かった。
博士は忙しい時間を割いて、私を元気づけようとしてくれている。それなのに、私はこんなところで、魚と自分を比べて落ち込んでいる。
「……ごめんなさい、……はかせ……」
「サナ? どうした、気分が悪くなったか?」
ククイがすぐに顔を覗き込む。サナは首を横に振り、膝の上の白いパンツを涙で濡らさないよう、必死に目を伏せた。
「……せっかく、……見せてくれたのに。……あの子たちを見てたら、……わたし、……自分が、ちっぽけで……何にもできないんだなって、思っちゃって……。……最低ですよね、……はかせの優しさを、こんな気持ちにしちゃうなんて……」
サナの声は、自責の念で震えていた。
ククイは一瞬だけ、水槽の中で光るラブカスたちに目をやり、それから静かにサナの前に膝をついた。彼は、彼女の小さな震える手を、逃げ場を作るように優しく包み込んだ。
「サナ。……ラブカスが自由に泳げるのは、この水槽の中に、彼らを愛して守る『環境』があるからだ。……そして、君が今、ここで呼吸をして、心を通わせている。それは、泳ぎ回ることよりもずっと、生命として尊いことなんだぞ」
ククイはサナの視線を優しく促し、水槽ではなく、彼自身の瞳を見つめさせた。
「君はちっぽけなんかじゃない。……君という存在がここにいてくれるから、俺は毎日、新しい発見や、守りたいという強さを教えてもらっている。……申し訳ないなんて思うな。……ラブカスが水の中にいるように、君は俺の腕の中にいればいい。そこが、君が一番自由に、自分らしくいられる場所なんだからな」
『相対的な無力感と、過度な自責傾向を確認。
患者にとって、健康な生命体との接触は諸刃の剣となる。
主治医の役割は、比較による絶望を「存在そのものの肯定」へと変換することである。
……サナの指先から、少しずつ強張りが消えていく。
彼女が自分を「何もできない」と責めるたび、俺は何度でも、彼女が俺に与えてくれているものの大きさを語り続けよう。
水槽の魚よりも、何よりも、今ここで俺の手を握り返してくれる彼女の鼓動こそが、アローラで一番の奇跡なのだから。』
窓の外では、アローラの海がキラキラと輝き、研究所の壁に水面のような光を反射させていた。
サナは、ラブカスの自由さを少しだけ許せるようになった。
自分は泳げないけれど、博士という深い海に守られて、確かにここで生きている。その事実を、彼の掌の温もりから、ゆっくりと受け入れていった。