世界一優しい私の主治医
アローラの午後は、あまりにも穏やかで、かえって現実感が薄かった。
サナはロフトのベッドに背を預け、ククイから借りた図鑑を眺めていたが、文字の輪郭が次第にぼやけ、思考が霧の中に溶けていくような感覚に囚われていた。
【診察記録:午後】
状態: 欠神(けっしん)様の意識混濁、および筋緊張の弛緩。
兆候: 外部刺激に対する反応遅延、および無目的な注視。
分析: 単なる「疲れ」や「うたた寝」ではない。バイタルサインの微細な変動に伴う、脳への血流および酸素供給の一時的な不安定化。これは数時間後に訪れる劇烈な倦怠感、あるいは高熱の前駆症状である可能性が極めて高い。
(……あれ、……わたし、なにを……)
パサリ、と乾いた音が静かな部屋に響いた。
サナの膝の上から、厚みのある図鑑がフローリングに滑り落ちたのだ。ただそれだけのこと。指先が、ほんの少し力を失っただけの、些細な出来事。
しかし、階下で論文を読んでいたはずのククイは、その音が床に届くよりも速く動いたかのような速度でロフトに現れた。
「サナ! 大丈夫か、意識はあるか!?」
「……え、……はか、せ……?」
サナは、呆然とククイを見上げた。彼は息を切らし、鋭い眼差しでサナの瞳孔や呼吸の深さを瞬時に観察している。
「……あ、ごめんなさい。……本を、落としちゃっただけで……。そんなに、慌てて来てもらわなくても……」
サナは、自分の不注意で博士を走らせてしまったことに、強い申し訳なさを感じて俯いた。
「なんでもないんです」と笑って本を拾おうとしたが、ククイはその手を優しく、けれど断固とした力で制した。
「拾わなくていい。サナ、今、自分の手がどう動いたか覚えているか?」
「……え? ……ええと、……たぶん、……ぼおっとしてて……」
「そうだ。君は今、『意識して本を離した』わけじゃない。……サナ、申し訳ないなんて思うな。俺を呼んだのは君じゃなく、君の身体が上げた小さな悲鳴なんだからな」
ククイの声はいつになく真剣だった。彼はサナの額に掌を当て、微かな熱の予感を感じ取った。
『微細な意識変容(Absent seizure-like state)を確認。
患者本人は「不注意」と認識しているが、これは明らかな神経学的サインである。
末梢の冷感と、眼球運動の緩慢さから推測するに、今夜、比較的強い症状がぶり返す恐れがある。
……彼女は申し訳なさそうに身を縮めているが、この「小さな音」を聞き逃していたら、俺は後で自分を許せなかっただろう。
主治医の仕事は、倒れた後に駆けつけることじゃない。
倒れる前の、その「一瞬の音」を拾い上げることだ。』
「サナ、悪いが今日はもう読書は終わりだ。……今から少し、早めの『嵐の備え』をするぞ」
ククイはサナを優しく横たわらせ、予備の点滴準備のために階下へ向かった。
サナは博士の背中を見送りながら、まだ自分の身に起ころうとしている異変に気づかぬまま、彼が拾ってくれた図鑑をそっと胸に抱きしめていた。
サナはロフトのベッドに背を預け、ククイから借りた図鑑を眺めていたが、文字の輪郭が次第にぼやけ、思考が霧の中に溶けていくような感覚に囚われていた。
【診察記録:午後】
状態: 欠神(けっしん)様の意識混濁、および筋緊張の弛緩。
兆候: 外部刺激に対する反応遅延、および無目的な注視。
分析: 単なる「疲れ」や「うたた寝」ではない。バイタルサインの微細な変動に伴う、脳への血流および酸素供給の一時的な不安定化。これは数時間後に訪れる劇烈な倦怠感、あるいは高熱の前駆症状である可能性が極めて高い。
(……あれ、……わたし、なにを……)
パサリ、と乾いた音が静かな部屋に響いた。
サナの膝の上から、厚みのある図鑑がフローリングに滑り落ちたのだ。ただそれだけのこと。指先が、ほんの少し力を失っただけの、些細な出来事。
しかし、階下で論文を読んでいたはずのククイは、その音が床に届くよりも速く動いたかのような速度でロフトに現れた。
「サナ! 大丈夫か、意識はあるか!?」
「……え、……はか、せ……?」
サナは、呆然とククイを見上げた。彼は息を切らし、鋭い眼差しでサナの瞳孔や呼吸の深さを瞬時に観察している。
「……あ、ごめんなさい。……本を、落としちゃっただけで……。そんなに、慌てて来てもらわなくても……」
サナは、自分の不注意で博士を走らせてしまったことに、強い申し訳なさを感じて俯いた。
「なんでもないんです」と笑って本を拾おうとしたが、ククイはその手を優しく、けれど断固とした力で制した。
「拾わなくていい。サナ、今、自分の手がどう動いたか覚えているか?」
「……え? ……ええと、……たぶん、……ぼおっとしてて……」
「そうだ。君は今、『意識して本を離した』わけじゃない。……サナ、申し訳ないなんて思うな。俺を呼んだのは君じゃなく、君の身体が上げた小さな悲鳴なんだからな」
ククイの声はいつになく真剣だった。彼はサナの額に掌を当て、微かな熱の予感を感じ取った。
『微細な意識変容(Absent seizure-like state)を確認。
患者本人は「不注意」と認識しているが、これは明らかな神経学的サインである。
末梢の冷感と、眼球運動の緩慢さから推測するに、今夜、比較的強い症状がぶり返す恐れがある。
……彼女は申し訳なさそうに身を縮めているが、この「小さな音」を聞き逃していたら、俺は後で自分を許せなかっただろう。
主治医の仕事は、倒れた後に駆けつけることじゃない。
倒れる前の、その「一瞬の音」を拾い上げることだ。』
「サナ、悪いが今日はもう読書は終わりだ。……今から少し、早めの『嵐の備え』をするぞ」
ククイはサナを優しく横たわらせ、予備の点滴準備のために階下へ向かった。
サナは博士の背中を見送りながら、まだ自分の身に起ころうとしている異変に気づかぬまま、彼が拾ってくれた図鑑をそっと胸に抱きしめていた。