世界一優しい私の主治医

アローラの夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
研究所のロフト、微かに聞こえる潮騒だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。サナは、シーツを握りしめ、闇に溶けそうな自分を必死に繋ぎ止めていた。

【観察記録:深夜】

状態: 孤立感の増大に伴う分離不安。

症状: 頻脈、浅い呼吸、および反復的な呼びかけ。

分析: 深夜の覚醒時、感覚刺激の欠如により「自己の境界線」が曖昧になっている。特定の他者による物理的な存在証明を強く求めている状態。

(……暗い。……だれも、いない……)

身体を丸め、サナは震える呼吸を繰り返した。熱が上がっているわけではない。けれど、深夜にふと目が覚めたとき、隣に誰もいないという事実は、どんな病魔よりも鋭くサナの心を切り裂いた。

もし、このまま誰にも気づかれずに、自分が消えてしまったら。
恐怖が限界に達したとき、サナは掠れた声で、階下に届くはずのない名前を呼んだ。

「……はか、せ……。……おねがい、……きて……」

その時、静かに階段を上がる音が響いた。
ドアから漏れた柔らかな明かりと共に、ククイが姿を現す。彼は白衣を脱ぎ、ラフな格好で、少しだけ眠そうな、けれどどこまでも穏やかな顔をしていた。

「呼んだか、サナ。……悪いな、少し論文に熱中しすぎていた」

「……はかせ……っ」

サナは、差し出されたククイの手を、壊れ物を掴むような必死さで握りしめた。

「……あの、……わがまま、言っても……いいですか」

「あぁ。俺に言えないことなんて、この研究所には一つもないぞ」

サナは博士の手を離さないまま、消え入りそうな声で続けた。

「……夜、めがさめたとき……。……ひとりで、……暗いところにいるのが、……こわいの。……だから、……そばに、いて……。……めがさめたとき、……はかせが、……そこに、いてほしいの……」

ククイは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの、全てを包み込むような笑みを浮かべた。

「そうか。……気づいてやれなくて、すまなかったな」

ククイはサナの枕元に椅子を引き寄せると、どっしりと腰を下ろした。

「いいぞ。今日から俺の書斎はここだ。……君が夜中にふと目を開けたとき、一番最初に映るのは、俺のこの少し冴えない顔だって約束しよう。……だから、安心していい。君が眠っている間も、俺がずっと『明日』を見張っててやるからな」

ククイはサナの額に、大きな、安心感に満ちた掌を置いた。

『患者の心理的安全確保を最優先事項に追加。
深夜の孤独感は、身体の回復を遅らせる大きな要因となる。
今夜から、彼女の意識が安定するまで、ロフトでの仮眠および夜間作業を常態化する。
……俺の手を握る彼女の力が、少しずつ緩んでいく。
彼女が求めているのは、高度な医療ではなく、ただ「一人ではない」という確信なのだ。
その確信が、彼女の最強の薬になるように、俺はこの場所を守り続ける。』

窓の外では、アローラの星々が静かに瞬いていた。
サナは、隣でページをめくる小さな音と、博士の規則正しい呼吸を子守唄に、もう二度と「暗闇」を恐れることなく、深い、深い眠りへと落ちていった。
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