世界一優しい私の主治医
【カルテ:午後】
状態: 倦怠感が強く、眼振(がんしん)がわずかに見られる。
行動: 読書を試みるも、数分で本を閉じる動作を繰り返す。
判断: 脳の疲労、および焦燥感によるエネルギーの空回り。
「……っ、……げほっ、……はぁ」
サナはオレンジの花柄シャツの袖で、額に滲んだ汗を拭った。写真の中のイワンコは、あんなに楽しそうに岩場を跳ねているのに。自分は、ページをめくるだけの指先さえ、鉛がついているように重い。
「サナ、無理に読まなくていい。……今日は、風の音を聞く日だ」
ククイが、冷たい水を入れたグラスを持って上がってきた。彼はサナが無理に「元気なふり」をして、写真集を握りしめているのを見抜いていた。
「……ククイ、博士……。……私、……わすれちゃいそうで。……外の世界が、どんなだったか。……お日さまの下を走るのが、どんな気持ちだったか……」
サナの声は、夕暮れ時の砂浜のように乾いていた。
病室のようなこのロフトで過ごす時間が長くなるにつれ、かつての自分が持っていた「当たり前の躍動」が、まるでお伽話のように遠く感じられてしまう。
「……このまま、……思い出せなくなっちゃったら、……私、どうなっちゃうんだろう……っ」
サナの瞳に、不安の色が混じる。記憶の中の自分が今の自分から切り離されていく感覚は、病状の悪化と同じくらい、彼女を孤独にさせていた。
ククイはサナの隣に座り、彼女から写真集をそっと受け取ると、その代わりに自分の大きな掌を彼女の前に差し出した。
「サナ。……記憶は、頭だけで持っているものじゃない。……見てごらん。君のこの指先、少しだけ節がしっかりしてきたと思わないか?」
「……えっ……?」
「毎日、ベッドの手すりを掴んで起き上がろうとしている。咳に耐えるために、シーツをぎゅっと握っている。……君の体は、走っていた頃の記憶を失くしてなんかいない。……今は『耐える』という形で、新しい命の動かし方を学んでいるんだ」
ククイはサナの黒い三編みを指先で軽く弾き、力強く微笑んだ。
「イワンコが岩を登るのも、君がこうして呼吸を整えて明日を待つのも、命の輝きに上下なんてない。……君が外の風を忘れたなら、俺が毎日、新しい風の匂いを運んできてやる。……そしていつか、君の体が『あぁ、これだ!』と思い出すまで、俺がずっと伴走してやるさ」
サナは博士の掌を見つめ、それから自分の小さな手を見つめた。
不自由で、情けないと思っていた今の自分の体。けれど博士は、それを「戦っている証」だと認めてくれる。
「……はい、……ククイ博士。……いつか、……いっしょに、……はしってくださいね」
「あぁ。俺を追い抜く練習、今から心の中で始めておけよ」
サナは博士の言葉を胸の中で反芻しながら、ようやく写真集を閉じて、心地よい疲れと共に目を閉じた。
『患者、自身のアイデンティティの喪失に対する不安。
「過去の自分」と「現在の自分」の連続性を説くことで、精神的な支柱を再構成。
身体的な回復だけでなく、彼女が「自分は今も、命の真っ只中にいる」と確信できるよう、日々の些細な努力を言語化して伝え続けること。』
窓の外では、アローラの空が、明日へと続く深い藍色に染まり始めていた。
状態: 倦怠感が強く、眼振(がんしん)がわずかに見られる。
行動: 読書を試みるも、数分で本を閉じる動作を繰り返す。
判断: 脳の疲労、および焦燥感によるエネルギーの空回り。
「……っ、……げほっ、……はぁ」
サナはオレンジの花柄シャツの袖で、額に滲んだ汗を拭った。写真の中のイワンコは、あんなに楽しそうに岩場を跳ねているのに。自分は、ページをめくるだけの指先さえ、鉛がついているように重い。
「サナ、無理に読まなくていい。……今日は、風の音を聞く日だ」
ククイが、冷たい水を入れたグラスを持って上がってきた。彼はサナが無理に「元気なふり」をして、写真集を握りしめているのを見抜いていた。
「……ククイ、博士……。……私、……わすれちゃいそうで。……外の世界が、どんなだったか。……お日さまの下を走るのが、どんな気持ちだったか……」
サナの声は、夕暮れ時の砂浜のように乾いていた。
病室のようなこのロフトで過ごす時間が長くなるにつれ、かつての自分が持っていた「当たり前の躍動」が、まるでお伽話のように遠く感じられてしまう。
「……このまま、……思い出せなくなっちゃったら、……私、どうなっちゃうんだろう……っ」
サナの瞳に、不安の色が混じる。記憶の中の自分が今の自分から切り離されていく感覚は、病状の悪化と同じくらい、彼女を孤独にさせていた。
ククイはサナの隣に座り、彼女から写真集をそっと受け取ると、その代わりに自分の大きな掌を彼女の前に差し出した。
「サナ。……記憶は、頭だけで持っているものじゃない。……見てごらん。君のこの指先、少しだけ節がしっかりしてきたと思わないか?」
「……えっ……?」
「毎日、ベッドの手すりを掴んで起き上がろうとしている。咳に耐えるために、シーツをぎゅっと握っている。……君の体は、走っていた頃の記憶を失くしてなんかいない。……今は『耐える』という形で、新しい命の動かし方を学んでいるんだ」
ククイはサナの黒い三編みを指先で軽く弾き、力強く微笑んだ。
「イワンコが岩を登るのも、君がこうして呼吸を整えて明日を待つのも、命の輝きに上下なんてない。……君が外の風を忘れたなら、俺が毎日、新しい風の匂いを運んできてやる。……そしていつか、君の体が『あぁ、これだ!』と思い出すまで、俺がずっと伴走してやるさ」
サナは博士の掌を見つめ、それから自分の小さな手を見つめた。
不自由で、情けないと思っていた今の自分の体。けれど博士は、それを「戦っている証」だと認めてくれる。
「……はい、……ククイ博士。……いつか、……いっしょに、……はしってくださいね」
「あぁ。俺を追い抜く練習、今から心の中で始めておけよ」
サナは博士の言葉を胸の中で反芻しながら、ようやく写真集を閉じて、心地よい疲れと共に目を閉じた。
『患者、自身のアイデンティティの喪失に対する不安。
「過去の自分」と「現在の自分」の連続性を説くことで、精神的な支柱を再構成。
身体的な回復だけでなく、彼女が「自分は今も、命の真っ只中にいる」と確信できるよう、日々の些細な努力を言語化して伝え続けること。』
窓の外では、アローラの空が、明日へと続く深い藍色に染まり始めていた。