世界一優しい私の主治医
アローラの昼下がり、研究所のロフトには、ページをめくる乾いた音だけが響いていた。
ククイが図鑑と一緒に貸してくれた「世界の伝承と民俗」という古い本。サナはその中の「手相」のページを興味深げに眺めていた。
刻まれた空白と、震える指先
【主治医の観察記録:午後】
状態: 突発的な精神的ショックによる情動の乱れ。
症状: 蒼白、指先の振戦(ふるえ)、および呼吸の促迫。
分析: 自己診断による誤った情報の受容。自身の病状に対する潜在的な死生観が、占術という不確定な外部情報と結びつき、強固な負の暗示として作用している。
(……えっと、親指の付け根から伸びるのが、……生命線……)
サナはベッドの上に、自分の細く青白い左手を広げた。
本の説明をなぞりながら、手のひらの線をなぞっていく。細いけれど、確かに刻まれている線。けれど、親指の付け根を囲むように伸びるはずのその線は、中央を過ぎたあたりで、まるで刃物で断ち切られたように、ぶつりと途絶えていた。
「……あ、……っ」
指先が止まる。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
もう一度、本と自分の手を見比べる。何度見ても、そこにあるはずの続きがない。
「線が途切れているのは、大きな病気や、命の……」
本の文字が、毒を持ってサナの脳裏に突き刺さる。
「……うそ、……そんなの、……いや……っ」
サナは震える右手で、左手の空白を必死に隠した。
けれど、一度見てしまった事実は消えない。今の自分の身体の弱さが、そのまま手のひらに残酷な予言として刻まれているように思えて、視界が涙で滲んでいく。
「サナ? どうした、そんなに震えて」
おやつを持ってきたククイが、ロフトの異変に気づき、すぐに駆け寄った。
サナは慌てて手を隠そうとしたが、ククイはその震える手首を優しく、けれど確実に捕らえた。
「……はかせ、……みないで。……わたしの、いのち……ここまで、しか……ないの……」
サナは涙をボロボロとこぼしながら、断ち切られた生命線をククイに見せた。
「……もうすぐ、……おわり、なんだって……。……ほら、……きえてるから……」
ククイは、サナの小さな手のひらと、開かれたままの本を一瞥した。
彼は一瞬だけ痛ましげに目を細めたが、すぐにサナの目を真っ直ぐに見つめ、その途切れた線の先に、自分の親指を強く押し当てた。
「……いいか、サナ。よく聞け」
ククイの声は、地面を震わせるような低く力強い響きを持っていた。
「線が途切れている? ……違うな。俺には、そこから『新しい道』が始まろうとしているように見えるぞ」
「……え……?」
「……いいか、線がないなら、俺が書き足してやる。何度でも、君が歩きたい場所までな」
ククイはサナの手を包み込み、自分の掌の熱を彼女の「空白」に叩き込むように握りしめた。
「君の命は、本の数行で決まるほど安っぽいものじゃない。……俺がこの手で、明日も、その先も、君をこの世界に繋ぎ止めてみせる。……この掌の熱を信じろ、サナ」
『不確定情報による急性不安状態を確認。
「手相」という非科学的な根拠に基づいた絶望に対し、論理的な否定ではなく、より強固な「生存への確信」を身体的接触を通じて上書き。
彼女の不安の源流にあるのは、線そのものではなく、未来への不透明さである。
……彼女の涙が止まるまで、俺は彼女の手を離さない。
手相がどうあれ、彼女の脈動は今、俺の掌の中で力強く、確かに打ち鳴らされているのだから。』
窓の外では、アローラの空に虹の端が見えていた。
サナは博士の掌から伝わる、痛いほどの熱と拍動を感じながら、途切れた線の先の暗闇に、小さな、けれど確かな光を見出そうとしていた。
ククイが図鑑と一緒に貸してくれた「世界の伝承と民俗」という古い本。サナはその中の「手相」のページを興味深げに眺めていた。
刻まれた空白と、震える指先
【主治医の観察記録:午後】
状態: 突発的な精神的ショックによる情動の乱れ。
症状: 蒼白、指先の振戦(ふるえ)、および呼吸の促迫。
分析: 自己診断による誤った情報の受容。自身の病状に対する潜在的な死生観が、占術という不確定な外部情報と結びつき、強固な負の暗示として作用している。
(……えっと、親指の付け根から伸びるのが、……生命線……)
サナはベッドの上に、自分の細く青白い左手を広げた。
本の説明をなぞりながら、手のひらの線をなぞっていく。細いけれど、確かに刻まれている線。けれど、親指の付け根を囲むように伸びるはずのその線は、中央を過ぎたあたりで、まるで刃物で断ち切られたように、ぶつりと途絶えていた。
「……あ、……っ」
指先が止まる。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
もう一度、本と自分の手を見比べる。何度見ても、そこにあるはずの続きがない。
「線が途切れているのは、大きな病気や、命の……」
本の文字が、毒を持ってサナの脳裏に突き刺さる。
「……うそ、……そんなの、……いや……っ」
サナは震える右手で、左手の空白を必死に隠した。
けれど、一度見てしまった事実は消えない。今の自分の身体の弱さが、そのまま手のひらに残酷な予言として刻まれているように思えて、視界が涙で滲んでいく。
「サナ? どうした、そんなに震えて」
おやつを持ってきたククイが、ロフトの異変に気づき、すぐに駆け寄った。
サナは慌てて手を隠そうとしたが、ククイはその震える手首を優しく、けれど確実に捕らえた。
「……はかせ、……みないで。……わたしの、いのち……ここまで、しか……ないの……」
サナは涙をボロボロとこぼしながら、断ち切られた生命線をククイに見せた。
「……もうすぐ、……おわり、なんだって……。……ほら、……きえてるから……」
ククイは、サナの小さな手のひらと、開かれたままの本を一瞥した。
彼は一瞬だけ痛ましげに目を細めたが、すぐにサナの目を真っ直ぐに見つめ、その途切れた線の先に、自分の親指を強く押し当てた。
「……いいか、サナ。よく聞け」
ククイの声は、地面を震わせるような低く力強い響きを持っていた。
「線が途切れている? ……違うな。俺には、そこから『新しい道』が始まろうとしているように見えるぞ」
「……え……?」
「……いいか、線がないなら、俺が書き足してやる。何度でも、君が歩きたい場所までな」
ククイはサナの手を包み込み、自分の掌の熱を彼女の「空白」に叩き込むように握りしめた。
「君の命は、本の数行で決まるほど安っぽいものじゃない。……俺がこの手で、明日も、その先も、君をこの世界に繋ぎ止めてみせる。……この掌の熱を信じろ、サナ」
『不確定情報による急性不安状態を確認。
「手相」という非科学的な根拠に基づいた絶望に対し、論理的な否定ではなく、より強固な「生存への確信」を身体的接触を通じて上書き。
彼女の不安の源流にあるのは、線そのものではなく、未来への不透明さである。
……彼女の涙が止まるまで、俺は彼女の手を離さない。
手相がどうあれ、彼女の脈動は今、俺の掌の中で力強く、確かに打ち鳴らされているのだから。』
窓の外では、アローラの空に虹の端が見えていた。
サナは博士の掌から伝わる、痛いほどの熱と拍動を感じながら、途切れた線の先の暗闇に、小さな、けれど確かな光を見出そうとしていた。