世界一優しい私の主治医

アローラの光が研究所の隅々まで満ちる昼下がり、サナの意識は底知れない沼の中に沈み込んでいるようだった。
指先ひとつ動かすのにも、巨大な岩を押し上げるようなエネルギーを必要とする。胸元は、浅く、頼りない呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。

【カルテ:午後】

状態: 全身性の強い倦怠感(マレーズ)、および意欲減退。

症状: 四肢の脱力、言語表出の困難、および外界への無関心。

分析: 長引く闘病によるエネルギーの枯渇。身体が最小限の生命維持以外の機能を一時的に停止させ、完全な休息を強いている状態。

(……なにも、できない……。かんがえることも、……つかれちゃう……)

サナは、布団に包まれた脚の重みさえ自分のものではないように感じていた。
視界の端に映る、ククイが置いていった温かいスープ。湯気がゆらゆらと揺れているが、手を伸ばしてスプーンを持つという一連の動作が、今の彼女にはエベレストに登るよりも困難なミッションに思えた。

ただ、まどろみの中で重力に身を任せる。
天井のシミがぼんやりと歪み、自分が空気の中に溶けて消えてしまいそうな、浮遊感と停滞感が混ざり合った奇妙な感覚。

「サナ。……今日は、ずいぶんと体が重そうだな」

足音を忍ばせて上がってきたククイが、ベッドの横に静かに腰を下ろした。
彼はサナが視線を向けることさえ負担であることを知っている。だから、あえて顔を覗き込むようなことはせず、彼女の細い手首の上に、自分の大きな掌をそっと重ねた。

「……はか、せ……。……ごめん、なさい。……おはなし、……できない……」

「いいんだ。喋らなくていい。……呼吸だけしてれば、それで十分だぞ」

ククイは、サナの肌が驚くほど冷たくなっていることに気づき、予備の毛布をそっと足元から掛け直した。

「今は、君の身体の中の小さな細胞たちが、みんなで会議をしてるんだ。『次はどこを直そうか』ってな。……その会議が終わるまで、君はただ、こうして泥のように眠っていればいい」

ククイは、彼女の手を包み込んだまま、反対の手で彼女の髪をゆっくりと、一定のリズムで撫でた。その単調な刺激が、だるさに支配されたサナの脳に、唯一の心地よい信号として届く。

「……からだが、……なくなっちゃいそう、です……」

「なくならないさ。俺がこうして握っているからな。……君がどれだけ深く沈んでも、俺がその手を離さない。……だから安心して、重力に身を任せていいぞ」

『重度の全身倦怠感を確認。
この状態の患者にとって、励ましや積極的な介入は逆効果となる。
「何もしなくていい」という許可を与え、身体的な接触(タッピングやハンドマッサージ)を通じて、自己の存在の輪郭を維持させることが重要。
……彼女の呼吸が少しずつ深くなり、眠りの淵へと向かっている。
何もできない今日という日も、彼女の身体にとっては再生のための不可欠な時間だ。
彼女が目覚め、指先を少し動かせるようになるまで、俺はこの「重力の盾」であり続ける。』

窓の外では、アローラの雲がゆっくりと形を変えながら流れていた。
サナは博士の手の重みと温もりを錨(いかり)にして、深くだるい眠りの中へと、静かに沈み込んでいった。
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