世界一優しい私の主治医
アローラの午後は、あまりにも残酷なほどに凪いでいた。
窓から差し込む陽光は、ベッドに横たわるサナを黄金色に縁取っているが、その光の中にいる少女は、まるで精巧に作られた人形のように静止していた。
【カルテ:午後】
状態: 極度の身体的虚脱に伴う無動無言状態(アキネティック・ミューティズム様症状)。
症状: 随意運動の完全消失、言語機能の一時的停止、および溢出性の流涙。
分析: 蓄積した疲労と病状の進行により、神経伝達が末梢まで届かない状態。意思はあるが、肉体がそれを実行するだけのエネルギーを失っている。
(……動いて、……おねがい……)
サナの意識は、透明な檻の中に閉じ込められていた。
視界の端に、ククイから借りた図鑑が見える。めくりたい。指を伸ばしたい。けれど、脚も、腕も、自分の身体ではない別の物質のように重く、冷たく、沈み込んでいる。
指先一本、まつ毛の一振りすら、今のサナには「成し遂げられない偉業」だった。
身体という器が壊れてしまったような絶望感。
声を出そうとしても、喉の筋肉は強張ったままで、空気の震えさえ作れない。
ただ、感情だけが逃げ場を失って溢れ出し、開いたままの瞳から、一筋、また一筋と、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「サナ、診察の時間だぞ。……サナ?」
ロフトに上がってきたククイは、異様な静寂に即座に足を止めた。
いつもなら、弱々しくても視線を向けるか、微かに呼吸が乱れるはずの彼女が、ただ一点を見つめて涙を流し続けている。
「……サナ、俺の声が聞こえるか」
ククイはベッドサイドに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
その瞳には、はっきりと「助けて」という叫びが宿っている。肉体という牢獄に閉じ込められた彼女の魂が、声にならない悲鳴を上げているのを、ククイは肌で感じ取った。
ククイは焦りを見せず、けれど力強く、彼女の動かない右手を両手で包み込んだ。
「……大丈夫だ。動かなくていい、サナ。今は身体が、君の魂を守るために全電源を落としているだけだ」
ククイは彼女の頬を伝う涙を、親指の腹で優しく拭った。
「……悔しいな。動きたいよな。……でもな、サナ。君の心臓はちゃんと動いている。俺の手を握ろうとする君の『意思』は、この熱を通して伝わってきているぞ」
ククイは彼女の指先に、一つひとつ、ゆっくりと自分の体温を染み込ませるようにマッサージを始めた。
『随意運動の完全な消失を確認。
精神的・身体的な限界を超えたことによる、一時的な生体フリーズ現象。
無理な激励や運動の強要は、更なる自己嫌悪と神経の疲労を招く。
今は「動かなくても、君の意思は俺に届いている」という確信を、触覚を通じて伝え続けることが最優先の処置となる。
……涙を流すことしかできない彼女の隣で、俺にできるのは、彼女の身体が再び「自分」を取り戻すまで、この手を貸し続けることだけだ。』
窓の外では、アローラの風が静かに凪いでいた。
サナは、自分では動かせないはずの指先に、博士の熱い掌が触れているのを感じていた。
声は出せなかった。指も動かなかった。けれど、その温もりだけが、暗闇の中にいた彼女をこの世界に繋ぎ止めていた
窓から差し込む陽光は、ベッドに横たわるサナを黄金色に縁取っているが、その光の中にいる少女は、まるで精巧に作られた人形のように静止していた。
【カルテ:午後】
状態: 極度の身体的虚脱に伴う無動無言状態(アキネティック・ミューティズム様症状)。
症状: 随意運動の完全消失、言語機能の一時的停止、および溢出性の流涙。
分析: 蓄積した疲労と病状の進行により、神経伝達が末梢まで届かない状態。意思はあるが、肉体がそれを実行するだけのエネルギーを失っている。
(……動いて、……おねがい……)
サナの意識は、透明な檻の中に閉じ込められていた。
視界の端に、ククイから借りた図鑑が見える。めくりたい。指を伸ばしたい。けれど、脚も、腕も、自分の身体ではない別の物質のように重く、冷たく、沈み込んでいる。
指先一本、まつ毛の一振りすら、今のサナには「成し遂げられない偉業」だった。
身体という器が壊れてしまったような絶望感。
声を出そうとしても、喉の筋肉は強張ったままで、空気の震えさえ作れない。
ただ、感情だけが逃げ場を失って溢れ出し、開いたままの瞳から、一筋、また一筋と、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「サナ、診察の時間だぞ。……サナ?」
ロフトに上がってきたククイは、異様な静寂に即座に足を止めた。
いつもなら、弱々しくても視線を向けるか、微かに呼吸が乱れるはずの彼女が、ただ一点を見つめて涙を流し続けている。
「……サナ、俺の声が聞こえるか」
ククイはベッドサイドに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
その瞳には、はっきりと「助けて」という叫びが宿っている。肉体という牢獄に閉じ込められた彼女の魂が、声にならない悲鳴を上げているのを、ククイは肌で感じ取った。
ククイは焦りを見せず、けれど力強く、彼女の動かない右手を両手で包み込んだ。
「……大丈夫だ。動かなくていい、サナ。今は身体が、君の魂を守るために全電源を落としているだけだ」
ククイは彼女の頬を伝う涙を、親指の腹で優しく拭った。
「……悔しいな。動きたいよな。……でもな、サナ。君の心臓はちゃんと動いている。俺の手を握ろうとする君の『意思』は、この熱を通して伝わってきているぞ」
ククイは彼女の指先に、一つひとつ、ゆっくりと自分の体温を染み込ませるようにマッサージを始めた。
『随意運動の完全な消失を確認。
精神的・身体的な限界を超えたことによる、一時的な生体フリーズ現象。
無理な激励や運動の強要は、更なる自己嫌悪と神経の疲労を招く。
今は「動かなくても、君の意思は俺に届いている」という確信を、触覚を通じて伝え続けることが最優先の処置となる。
……涙を流すことしかできない彼女の隣で、俺にできるのは、彼女の身体が再び「自分」を取り戻すまで、この手を貸し続けることだけだ。』
窓の外では、アローラの風が静かに凪いでいた。
サナは、自分では動かせないはずの指先に、博士の熱い掌が触れているのを感じていた。
声は出せなかった。指も動かなかった。けれど、その温もりだけが、暗闇の中にいた彼女をこの世界に繋ぎ止めていた