世界一優しい私の主治医
アローラの市場は、色とりどりの木の実や焼きたてのパンの香りで溢れていた。
久しぶりに体調が安定したサナは、ククイに付き添われ、研究所を飛び出して買い出しに来ていた。オレンジの花柄シャツが南国の強い日差しに映え、白いパンツの裾が軽やかに揺れる。
しかし、賑わいの中心に足を踏み入れた瞬間、サナの心に冷たい棘が刺さった。
【主治医の観察記録:外出時】
状態: 外的刺激に対する心理的防御反応の亢進。
症状: 視線回避、身心の萎縮、および自尊心の急激な低下。
分析: 長期の療養生活による「社会との乖離」が、周囲の無邪気な好奇心を「拒絶」として捉えさせている。群衆の中での孤独感がピークに達している状態。
「……っ」
サナはククイの白衣の裾を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
アローラの人々は温かい。けれど、それゆえに「知らない顔」への好奇心は隠されない。
細すぎる手足、顔色の悪さを隠しきれない白い肌、そして、大人の男に支えられなければ歩くのも覚束ないその姿。
すれ違う人々の視線が、針のようにサナの肌に刺さる。
「あの子、病気なのかな」「可哀想に」――そんな声が聞こえてくるような気がして、サナの頭の中は一瞬で真っ白になった。
(……見ないで。……お願い、私を見ないで……)
眩しいはずの市場が、急に底なしの沼のように感じられる。
元気な子供たちが走り回り、笑い声が響くこの場所で、自分だけが場違いな異物のように思えてならなかった。消えてしまいたい。今すぐこの場から透明になって、誰もいないロフトの隅っこに逃げ帰りたい。
「……はかせ、……もう、かえりたい、です……。……わたし、……ここに、いちゃ……だめな気がする……」
サナの声は震え、足元がふらついた。呼吸が浅くなり、過呼吸の予兆が胸を締め付ける。
ククイは即座に立ち止まり、周囲の視線を遮るようにしてサナを自分の大きな身体の陰に招き入れた。彼は彼女の肩を抱き寄せ、その耳元で低く、けれど確信に満ちた声を届けた。
「サナ、下を見るな。俺を見ろ。……誰も君を拒んでなんていない。彼らはただ、アローラに新しく来た美しい花に驚いているだけだ」
「……ちがう、……わたし、……へんだから……」
「変なものか。俺が認めた、世界で一番勇敢な教え子だぞ。……怖ければ、俺の腕の中に隠れていればいい。買い物なんて、途中でやめてもいいんだ」
ククイはサナを安心させるように、その背中をゆっくりと撫でた。
『外出リハビリにおける心理的障壁を確認。
身体的な回復に対し、社会的な自己イメージの修復が追いついていない。
他者の視線を「同情」や「憐れみ」と解釈し、自己否定に繋げる思考パターンが見られる。
主治医として、彼女が「自分はここにいてもいいのだ」と思える環境を、物理的にも精神的にも構築し続ける必要がある。
今日はもう切り上げよう。市場の賑わいよりも、二人で静かに食べるアイスクリームの方が、今の彼女には必要な薬だ。』
ククイはサナを抱き上げるようにして、人混みの少ない海沿いの道へと進路を変えた。
サナは博士の胸に顔を埋め、市場の騒音から逃れるように目を閉じたが、その心にはまだ、自分だけが世界から取り残されているような、苦い痛みが残っていた。
久しぶりに体調が安定したサナは、ククイに付き添われ、研究所を飛び出して買い出しに来ていた。オレンジの花柄シャツが南国の強い日差しに映え、白いパンツの裾が軽やかに揺れる。
しかし、賑わいの中心に足を踏み入れた瞬間、サナの心に冷たい棘が刺さった。
【主治医の観察記録:外出時】
状態: 外的刺激に対する心理的防御反応の亢進。
症状: 視線回避、身心の萎縮、および自尊心の急激な低下。
分析: 長期の療養生活による「社会との乖離」が、周囲の無邪気な好奇心を「拒絶」として捉えさせている。群衆の中での孤独感がピークに達している状態。
「……っ」
サナはククイの白衣の裾を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
アローラの人々は温かい。けれど、それゆえに「知らない顔」への好奇心は隠されない。
細すぎる手足、顔色の悪さを隠しきれない白い肌、そして、大人の男に支えられなければ歩くのも覚束ないその姿。
すれ違う人々の視線が、針のようにサナの肌に刺さる。
「あの子、病気なのかな」「可哀想に」――そんな声が聞こえてくるような気がして、サナの頭の中は一瞬で真っ白になった。
(……見ないで。……お願い、私を見ないで……)
眩しいはずの市場が、急に底なしの沼のように感じられる。
元気な子供たちが走り回り、笑い声が響くこの場所で、自分だけが場違いな異物のように思えてならなかった。消えてしまいたい。今すぐこの場から透明になって、誰もいないロフトの隅っこに逃げ帰りたい。
「……はかせ、……もう、かえりたい、です……。……わたし、……ここに、いちゃ……だめな気がする……」
サナの声は震え、足元がふらついた。呼吸が浅くなり、過呼吸の予兆が胸を締め付ける。
ククイは即座に立ち止まり、周囲の視線を遮るようにしてサナを自分の大きな身体の陰に招き入れた。彼は彼女の肩を抱き寄せ、その耳元で低く、けれど確信に満ちた声を届けた。
「サナ、下を見るな。俺を見ろ。……誰も君を拒んでなんていない。彼らはただ、アローラに新しく来た美しい花に驚いているだけだ」
「……ちがう、……わたし、……へんだから……」
「変なものか。俺が認めた、世界で一番勇敢な教え子だぞ。……怖ければ、俺の腕の中に隠れていればいい。買い物なんて、途中でやめてもいいんだ」
ククイはサナを安心させるように、その背中をゆっくりと撫でた。
『外出リハビリにおける心理的障壁を確認。
身体的な回復に対し、社会的な自己イメージの修復が追いついていない。
他者の視線を「同情」や「憐れみ」と解釈し、自己否定に繋げる思考パターンが見られる。
主治医として、彼女が「自分はここにいてもいいのだ」と思える環境を、物理的にも精神的にも構築し続ける必要がある。
今日はもう切り上げよう。市場の賑わいよりも、二人で静かに食べるアイスクリームの方が、今の彼女には必要な薬だ。』
ククイはサナを抱き上げるようにして、人混みの少ない海沿いの道へと進路を変えた。
サナは博士の胸に顔を埋め、市場の騒音から逃れるように目を閉じたが、その心にはまだ、自分だけが世界から取り残されているような、苦い痛みが残っていた。