世界一優しい私の主治医

「………きれい……。サニーゴ、……まってるの……?」

サナの瞳は開いているが、そこにはククイの姿も、住み慣れたロフトの天井も映っていない。
彼女の視界には、真夜中の闇を突き抜けて、キラキラと輝く昼間のエメラルドグリーンの海が広がっていた。カントーでは決して得られなかった、自由で、苦しくない、あの「夢の海」が。

「……いま、いくね……。……やっと、およげるんだ……」

サナはシャツを汗でびっしょりと濡らしながら、ふらふらとベッドを抜け出した。脚は、驚くほど覚束ない。けれど、脳を支配する幻影が、痛みも倦怠感も麻痺させていた。

ククイが階下で急ぎの解熱薬を準備していた、わずか数分の隙だった。
サナは、まるで引力に導かれるように、研究所のテラスへと続くドアを解き放った。

「サナ!? どこへ行く!」

階段を駆け上がってきたククイが見たのは、裸足のまま、夜の砂浜へとふらふらと歩みを進めるサナの背中だった。

「サナ、止まれ! そっちは海だ!」

「……はかせ? ……みて、お水が……とっても、あったかいの……」

サナは、波打ち際で足を止めることなく、そのまま膝まで海に浸かった。
熱に浮かされた彼女にとって、夜の冷たい海水は、まるで祝福の温もりのように感じられていた。彼女の手は、目の前にいないポケモンを捕まえようと、虚空を泳いでいる。

「サナ!」

ククイは、波にさらわれる寸前で、サナの身体を後ろから力一杯抱きしめた。

「……放して、……はかせ……っ。……わたし、泳げるの、……やっと、……自由になれるのに……っ!」

サナはククイの腕の中で激しく暴れた。その力は、普段の衰弱しきった彼女からは想像もつかないほどに悲痛で、強かった。
彼女にとって、この海は死への誘いではなく、苦痛のない世界への唯一の入り口に見えていたのだ。

「ダメだ、サナ! 目を覚ませ! 泳ぐのは明日だ、俺と一緒に太陽の下で泳ぐんだ!」

ククイは、海水に濡れて重くなったサナの身体を強引に抱え上げ、砂浜へと引き戻した。
サナは博士の白衣を激しく叩き、泣き叫んでいたが、やがて急激な運動に心臓が悲鳴を上げ、ガクリと首の力が抜けた。

「……ぁ、……は、かせ……? ……くらい、よ……、お水が……つめたい……」

現実の夜の冷たさが、ようやく彼女の意識の端を捉えた。サナは激しく震えながら、ククイの胸に顔を埋めた。

『高熱による精神運動興奮状態を確認。
幻覚による自傷行為、および溺水の危険性が極めて高い。
物理的な拘束を含めた緊急鎮静を行い、体温の強制冷却を最優先とする。
……あんなに必死に、彼女は海を求めていた。
彼女をこの狭いベッドに縛り付けているのは、病魔だけではなく、俺のエゴではないのかという疑念が脳をよぎる。
だが、たとえ嫌われても、彼女を「あちら側」へ行かせるわけにはいかない。
今夜は、彼女が海を忘れるまで、その凍える身体を俺の体温で上書きし続ける。』

窓の外では、夜の海が何事もなかったかのように黒い波を打ち寄せていた。
ククイは、ぐったりと意識を失ったサナをロフトへと連れ戻し、夜が明けるまで一秒たりともその手を離すことはなかった。
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