世界一優しい私の主治医

アローラの夜明け前、研究所は静寂に支配されていた。
窓の外で繰り返される波音だけが、時を刻む砂時計のように規則正しく響いている。ロフトの淡い明かりの中で、サナは深い、あまりにも深い眠りの中に沈んでいた。

カントーからの過酷な旅路を終えた彼女の身体は、まるで全ての機能を停止させて休息を求めているかのように、微動だにしない。

限界の休息と、主治医の通夜
【深夜から黎明にかけての経過観察】

状態: 極度の疲弊に伴う「仮死状」の深い睡眠。

兆候: 代謝の最小化、および体温の低下。

分析: 生存本能による強制的なエネルギー保存。呼吸は極めて浅く、外部刺激への反応は消失。

(……静かすぎるな)

ククイはベッドサイドの椅子に深く腰掛け、サナの横顔をじっと見つめていた。
胸元は、数秒に一度、かろうじて上下している。その動きがあまりに小さいため、時折、彼女の命の灯がふっと消えてしまったのではないかという錯覚に襲われる。

ククイは何度も手を伸ばしかけ、そのたびに動きを止めた。
安らかな眠りを妨げたくない。だが、主治医としての本能が、彼女の皮膚の冷たさを確かめろと急かしてくる。

ククイは意を決し、サナの細い手首に、吸い付くように二本の指を当てた。

「……っ」

指先に伝わってきたのは、驚くほどゆっくりとした、けれど途切れることのない確かな鼓動だった。
トクン、トクンと、微かだが凛としたリズム。それは、カントーの冷たい病室で凍りついていた彼女の時間が、アローラの地で再び溶け出し、一歩ずつ進み始めた証だった。

ククイは安堵の溜息を漏らし、白衣を脱いで、サナの肩口にそっと掛け直した。

「……よく頑張ったな、サナ。この眠りは、君がアローラで新しく生まれ変わるための儀式だ」

やがて、水平線の彼方から黄金色の光が差し込み始めた。
アローラの朝日は、ロフトの木目を赤く染め、眠り続けるサナの白い頬を優しく照らし出していく。
まるで「死んだように」眠っていた彼女の表情に、光の粒子が触れた瞬間、わずかだが血色が戻ったように見えた。

「……ん……」

サナが夢の中で小さく身じろぎをし、膝を少しだけ曲げた。
その、なんてことのない「生命の動き」が、ククイにはどんな奇跡よりも美しく思えた。

『到着第一夜。危機的な衰弱状態からの自己回復プロセスを確認。
彼女の肉体は、想像以上にアローラの環境を欲していたようだ。
深い眠りは、過去の苦痛を忘れ、新しい環境を受け入れるための「初期化」であると推測される。
目覚めた時、彼女が最初に感じるのが「空腹」であれ「眩しさ」であれ、俺はその全てを肯定する準備ができている。
アローラの朝日は、もう彼女の味方だ。』

ククイは窓を開け、新しく生まれたばかりの潮風を部屋に招き入れた。
サナはまだ夢の中にいたが、その指先は、博士が掛けてくれた白衣の裾を、無意識のうちにぎゅっと握りしめていた。
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