世界一優しい私の主治医
船を降りたサナの記憶は、断片的で曖昧だった。
連絡船から研究所までの道のり、ククイの大きな腕に抱かれながら見た景色は、強烈な日差しと、カントーでは見たこともないような濃い花の匂い、そしてどこまでも続く青い残像。
長旅の疲労と重度の乗り物酔いで、サナの意識は陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
【カルテ:到着直後】
状態: 長距離移動による重度の身体的疲弊、および脱水症状寸前の衰弱。
症状: 浅表性呼吸、四肢の冷感、環境変化による感覚過敏。
処置: 外部刺激を遮断した静養、およびアローラ環境への漸次適応。
ククイが研究所のドアを蹴り開けるようにして中に入ると、ひんやりとした木の温もりと、海風の匂いがサナを包み込んだ。
「……はかせ、……ここ、が……」
サナの声は、もはや羽毛よりも軽かった。シャツ越しに伝わる彼女の体温は、カントーの病室にいた時よりもさらに低く感じられ、ククイは奥歯を噛み締めて彼女をロフトへと運んだ。
「あぁ。ここが今日から君の家だ。……誰にも邪魔されない、君だけの場所だぞ」
ロフトのベッドに横たわされた瞬間、サナは吸い込まれるように深い眠りへと落ちそうになった。けれど、身体が重力に従うことを拒むように、細い指先がククイの白衣を離そうとしない。
「……こわい、です……。……めをさましたら、……また、あの……はいいろの、びょうしつに……」
サナの瞳に、乾ききった涙の跡が光る。
環境が変わっても、彼女の心にこびりついた「死への予感」は、簡単には消え去ってくれない。
「サナ、目を開けてごらん」
ククイは優しく、けれど力強く彼女の指を解き、窓のブラインドをゆっくりと上げた。
そこには、夕闇に染まり始めたアローラの海が広がっていた。カントーの重苦しい夜とは違う、紫色と金色のグラデーション。
「……きれい……。……お空が、……燃えてるみたい……」
「これがアローラの挨拶だ。……いいか、サナ。ここでは呼吸をするだけでリハビリになる。……カントーの重いコートはもういらない。君を縛るモニターも、白い壁もない」
ククイはサナの枕元に、アローラの水で満たしたグラスを置いた。
サナは、足を小さく丸め、初めて自分の意志で、アローラの空気を深く、深く吸い込んだ。
肺の奥に届いた空気は、驚くほど温かくて、少しだけ潮の味がした。
それは、彼女の止まりかけていた時間が、音を立てて動き出した瞬間だった。
『カントーからの「移送」完了。
身体的ダメージは想定内だが、精神的なショックは大きい。
まずは「ここは安全な場所である」という認識を、彼女の細胞一つひとつに染み込ませる必要がある。
明日、彼女が目覚めたとき、最初に目にするのが最高のアローラの朝日であるように、俺は今夜、この窓辺で夜明けを待つことにする。
彼女の物語は、まだ一行目が書かれたばかりだ。』
窓の外では、一番星が静かに輝き始めていた。
サナは、ククイが傍らにいてくれる安心感に包まれながら、カントーでは決して得られなかった「明日への眠り」に、ゆっくりと身を委ねていった。
連絡船から研究所までの道のり、ククイの大きな腕に抱かれながら見た景色は、強烈な日差しと、カントーでは見たこともないような濃い花の匂い、そしてどこまでも続く青い残像。
長旅の疲労と重度の乗り物酔いで、サナの意識は陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
【カルテ:到着直後】
状態: 長距離移動による重度の身体的疲弊、および脱水症状寸前の衰弱。
症状: 浅表性呼吸、四肢の冷感、環境変化による感覚過敏。
処置: 外部刺激を遮断した静養、およびアローラ環境への漸次適応。
ククイが研究所のドアを蹴り開けるようにして中に入ると、ひんやりとした木の温もりと、海風の匂いがサナを包み込んだ。
「……はかせ、……ここ、が……」
サナの声は、もはや羽毛よりも軽かった。シャツ越しに伝わる彼女の体温は、カントーの病室にいた時よりもさらに低く感じられ、ククイは奥歯を噛み締めて彼女をロフトへと運んだ。
「あぁ。ここが今日から君の家だ。……誰にも邪魔されない、君だけの場所だぞ」
ロフトのベッドに横たわされた瞬間、サナは吸い込まれるように深い眠りへと落ちそうになった。けれど、身体が重力に従うことを拒むように、細い指先がククイの白衣を離そうとしない。
「……こわい、です……。……めをさましたら、……また、あの……はいいろの、びょうしつに……」
サナの瞳に、乾ききった涙の跡が光る。
環境が変わっても、彼女の心にこびりついた「死への予感」は、簡単には消え去ってくれない。
「サナ、目を開けてごらん」
ククイは優しく、けれど力強く彼女の指を解き、窓のブラインドをゆっくりと上げた。
そこには、夕闇に染まり始めたアローラの海が広がっていた。カントーの重苦しい夜とは違う、紫色と金色のグラデーション。
「……きれい……。……お空が、……燃えてるみたい……」
「これがアローラの挨拶だ。……いいか、サナ。ここでは呼吸をするだけでリハビリになる。……カントーの重いコートはもういらない。君を縛るモニターも、白い壁もない」
ククイはサナの枕元に、アローラの水で満たしたグラスを置いた。
サナは、足を小さく丸め、初めて自分の意志で、アローラの空気を深く、深く吸い込んだ。
肺の奥に届いた空気は、驚くほど温かくて、少しだけ潮の味がした。
それは、彼女の止まりかけていた時間が、音を立てて動き出した瞬間だった。
『カントーからの「移送」完了。
身体的ダメージは想定内だが、精神的なショックは大きい。
まずは「ここは安全な場所である」という認識を、彼女の細胞一つひとつに染み込ませる必要がある。
明日、彼女が目覚めたとき、最初に目にするのが最高のアローラの朝日であるように、俺は今夜、この窓辺で夜明けを待つことにする。
彼女の物語は、まだ一行目が書かれたばかりだ。』
窓の外では、一番星が静かに輝き始めていた。
サナは、ククイが傍らにいてくれる安心感に包まれながら、カントーでは決して得られなかった「明日への眠り」に、ゆっくりと身を委ねていった。