世界一優しい私の主治医

カントーの灰色の空の下、空港の喧騒はサナにとって耐え難い暴力だった。
ククイに抱きかかえられるようにして進む車椅子の上で、サナは厚手の毛布にくるまり、シャツの襟を震える指で握りしめていた。

これから始まるのは、数千キロにおよぶ空と海の旅。それは、今の彼女の肉体にとっては、命を賭した大冒険に他ならなかった。

【移動ログ:カントー発 旅客機内】

状況: 気圧変化に伴う呼吸困難、および閉鎖空間での不安感。

処置: 携帯用酸素濃縮器の常時使用。

経過: 離陸時のGにより、一時的に意識が遠のく。

「……は、かせ……っ、……お耳が、……いたい、です……。……からだ、が……バラバラに、なっちゃいそう……」

飛行機が高度を上げるにつれ、サナの顔から血の気が引いていく。気圧の変動は容赦なく彼女の肺を圧迫し、細い喉からは「ヒュー……」と、隙間風のような音が漏れ始めた。

ククイは隣の席で、サナの冷え切った小さな手を両手で包み、自分の心音を伝えるように力強く握りしめていた。

「サナ、大丈夫だ。ゆっくり吐いてごらん。……この飛行機は、君を苦しめる場所から逃げるための翼だ。……重たいのは最初だけ。すぐに、空が君を軽くしてくれるぞ」

ククイは、慣れない狭い座席で、サナが少しでも楽な姿勢になれるよう、自分の肩を枕代わりに差し出した。サナは、博士の白衣から漂う消毒薬とは違う「おひさまの匂い」に必死にしがみつき、意識を繋ぎ止めていた。

揺れる境界線と、波に奪われる意識
空の旅を終え、アローラの離島にある研究所へと向かう小型船に乗り換えた頃、サナの体力は限界に達していた。

【移動ログ:アローラ近海 連絡船内】

状況: 激しい動揺(ピッチング・ローリング)による重度の乗り物酔い。

症状: 顔面蒼白、冷汗、および反復する嘔気。

分析: 三半規管の脆弱性に加え、疲労による自律神経の著しい乱れ。

「……っ、……う……、……はかせ、……きもち、……わるい……」

シャツが冷たい汗で肌に張り付く。サナは、船が波を越えるたびに突き上げる不快感に、膝を折って丸まった。
カントーの病室では経験したことのない「揺れ」という刺激が、彼女の三半規管を容赦なく掻き乱していく。

ククイは、ぐったりと自分の膝に横たわるサナの背中を、大きな掌でゆっくりとさすり続けた。

「……あぁ、苦しいな。……サナ、もうすぐだ。……もうすぐ、揺れない地面が、暖かい砂浜が君を待っている。……吐き出していいぞ。俺の白衣なんて、いくら汚しても構わないんだからな」

サナは、胃の底からせり上がる不快感と、肺の痛み、そして逃げ場のない孤独感に、音もなく涙を流した。
「……わたし、……アローラに……いけるの……? ……このまま、……海に、……とけちゃいそう……」

「行ける。俺が連れて行く。……見てごらん、サナ。窓の外を」

ククイが窓のカーテンを少しだけ開けると、そこにはカントーの灰色とは正反対の、エメラルドグリーンの輝きが広がっていた。

「……あ、……きれい……。……お水が、……ひかって……」

「あれがアローラの海だ。……君を歓迎して、あんなにキラキラ笑ってる。……もう一踏ん張りだ、サナ。……君の新しい呼吸が、あそこで待っている」

ククイの言葉に導かれるように、サナは朦朧とする意識の中で、遠くに見える島の緑を見つめた。
身体はぼろぼろで、指先ひとつ動かすのも辛い。けれど、博士の掌から伝わる確かな熱が、彼女を「あちら側」へ行かせまいと、この世界に繋ぎ止めていた。

これが、サナが「死を待つ少女」から「生きることを選んだ旅人」へと変わった、最も長く、最も苦しい数時間の記録だった。
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