世界一優しい私の主治医

アローラの朝は、眩しいほどの光で満ちていた。
サナは今、夢の中でサニーゴの背中に掴まり、透き通った海の中を飛ぶように進んでいた。肺にはいくらでも空気が満ち、脚は、ヒレのように自由にしなって水を捉える。隣を泳ぐタッツーと笑い合い、深海まで一気に潜っても、心臓が悲鳴を上げることはなかった。

「……あは、……すごい……。どこまででも、いける……っ」

その喜びの言葉が、現実の空気となって唇から漏れた瞬間。
ふわりと浮遊感が消え、身体に重い「現実」が帰ってきた。

【主治医の観察記録:午前】

状態: 覚醒直後の情緒的不安定。

兆候: 虚空を見つめる視線、および自力での寝返りの試行。

分析: 睡眠中に見た「全能感のある夢」と、覚醒時の「身体的制限」とのギャップによる喪失感。

サナはゆっくりと目を開けた。視界に映るのは、いつものロフトの天井。
胸は、夢の余韻で少しだけ速く波打っているが、そこにはもう、どこまでも泳いでいけるような軽やかさはなかった。

サナは、シーツの下で自分の足に力を込めてみた。
けれど、夢の中であれほど力強く水を蹴った脚は、今は布団の重みさえ押し返すことができず、ただそこにあるだけの肉の塊のように感じられた。

「……そっか。……ゆめ、だったんだ……」

ポツリと、小さな声が零れた。
諦めることには慣れているはずだった。けれど、夢の中の自由があまりに鮮烈だったせいで、今の「指先一本動かすのにも覚悟がいる」この身体が、耐え難いほどもどかしく、悲しかった。

「……サナ? 起きたのか」

階下から朝食の準備をしていたククイが、気配を察して上がってきた。
サナが窓の外の海を、まるで遠い異国の地を見るような、切ない目で見つめているのに気づき、彼は静かにベッドの横へ腰を下ろした。

「……はかせ。……私、さっきまで、海の中にいたんです。……サニーゴたちと、ずっと遠くまで……」

サナは、力なく横たわる自分の手をじっと見つめた。

「……でも、目が覚めたら、やっぱり……。……私、泳げないし、……歩くのも、難しいままで……」

「……サナ」

ククイは、彼女の言葉を遮ることなく、その細い手をそっと自分の掌で挟み込んだ。
夢の残像を惜しむように震える彼女の指先に、自分の確かな体温を分け与える。

「……ゆめの中の私は、……あんなに元気だったのに。……おきてる時の私は、……こんなに、……ぼろぼろですね」

「そんなことはない。……夢の中の君が自由だったのは、君の心が『自由になりたい』って、強く、正しく叫んでいる証拠だ。……そのエネルギーがある限り、君の身体は決して、ただの檻なんかじゃないぞ」

ククイは、彼女の視線を自分の方へと向けさせた。

「今は、このベッドが君のサニーゴだ。……俺が君を支えて、君の行きたい場所へ連れて行く。……いつか夢が夢じゃなくなる日まで、俺の足と腕を、君の好きなように使えばいいんだ」

サナは、博士の揺るぎない瞳の中に、夢の中の青い海よりも深い優しさを見つけた。

『理想と現実の乖離による精神的消耗を確認。
夢は希望であると同時に、現状を突きつける残酷な鏡にもなり得る。
主治医の役割は、夢から覚めた後の絶望を「次の夢への休息」へと変換させることにある。
彼女が「現実の身体」を嫌いにならないよう、今日はリハビリの時間を削り、テラスで潮風を浴びながら、夢の続きを語り合う時間を作ることにする。』

窓の外では、アローラの海がキラキラと、サナがさっきまで泳いでいたあの色のまま輝いていた。
サナは博士の手をぎゅっと握りしめ、「夢は夢だった」と諦めかけた心に、もう一度だけ、小さな、熱い希望を灯し直した。
25/113ページ
スキ