世界一優しい私の主治医

アローラの午後は、凪いでいた。
サナはロフトのベッドで体を休めながら、開け放たれた窓から差し込む光を眺めていた。体調は悪くない。けれど、ふとした拍子に胸の奥が少しだけ重くなり、誰にも聞こえないような小さな、本当に小さな声が零れた。

「……はかせ……」

それは、助けを求める叫びですらなかった。ただ、静寂に耐えかねた心が漏らした、無意識の独り言。

だが、その刹那。
階下から「バタバタ」と力強い足音が響き、一呼吸置く間もなくロフトの扉が開かれた。

【主治医の観察記録:午後】

状態: 安定期。身体的苦痛の訴えはなし。

事象: 聴覚およびバイタルモニターによる、微細な心理的揺らぎの検知。

分析: 言語化されない「寂しさ」や「不安」に対し、即時介入を実施。

「サナ! どうした、今呼んだか!?」

そこには、白衣をなびかせ、少し肩を上下させたククイが立っていた。
手には聴診器と、彼女が飲みやすい温度に調整された白湯の入ったグラスが握られている。その表情は真剣そのもので、まるで緊急事態でも起きたかのような緊迫感さえ漂っていた。

「……え、あ……はかせ? どうして……」

サナは驚き、オレンジの花柄シャツの胸元を小さく押さえた。
今のは、自分にさえ聞こえるか怪しいくらいの呟きだったはずだ。それなのに、博士はまるで背中に羽でも生えているかのように、瞬時に自分の目の前に現れた。

「どうしてって、君が俺を呼んだ気がしたんだ。……胸が苦しいのか? それとも、喉が渇いたか?」

ククイはベッドサイドに膝をつき、サナの顔色を隅々までスキャンするように見つめた。
その大きな掌が、おずおずと差し出されたサナの額に、吸い付くように当てられる。

「……ちがうんです。……ただ、……ちょっとだけ、お名前を呼んでみただけ……なんです」

サナは、白いパンツの膝を抱えるようにして、少しだけ顔を赤らめた。
「……こんなに小さな声だったのに、……博士には、魔法の耳がついてるみたい」

「魔法じゃない。……俺はいつだって、君の呼吸の音を聴いているからな。……たとえ君が声を上げなくても、君の心が俺を必要としている音は、どんな嵐の音より大きく俺に届くんだぞ」

ククイは、安心したようにふっと表情を緩め、持ってきたグラスをサナの手に添えた。
サナは、自分のどんな些細な揺らぎも見逃さず、瞬時に駆けつけてくれるこの人の「献身」の深さに、改めて胸を打たれた。

「……博士。……私、……わがままになっちゃいそうです。……何があっても、……すぐに博士が来てくれるって、……信じてるから」

「あぁ、いくらでもわがままになれ。……君が俺を呼ぶ限り、俺はアローラのどこにいたって、光より速く君の隣に飛んでくる。……それが、俺が自分に課した一番大事なルールなんだ」

ククイはサナの細い指先を、慈しむように一度だけギュッと握りしめた。

『患者との高いシンクロニシティを確認。
医学的モニタリングを超えた、直感的なケアの重要性を再認識する。
彼女が「呼べば必ず来る」という確信を持つことは、孤立感という最大の毒を中和する特効薬となる。
彼女の小さな呟きを拾い上げることが、俺にとっての何よりの誇りだ。
明日も、その次の日も、彼女の声の届く範囲から一歩も離れずにいよう。』

窓の外では、アローラの太陽が二人を祝福するように、ロフトの中を黄金色に満たしていた。
サナは、博士の白衣の裾をそっと握り直し、もう二度と「ひとり」で呟くことはないのだと、静かな幸福の中で確信していた。
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