世界一優しい私の主治医
【カルテ:夕刻】
状態: 回復期の停滞。
症状: 全身の倦怠感、および軽度の感覚過敏。
分析: 病状の「一進一退」に対する、精神的な摩耗。
「……博士。……いつになったら、私は『普通』になれるんでしょうか」
サナの声は、動くのを止めた空気の中に、ぽつりと落とされた。
昨日は歩けたのに、今日は指を動かすのも億劫だ。少し良くなったと思えば、また次の嵐に引き戻される。そのゴールのない坂道を登り続けることに、彼女の心は悲鳴を上げ始めていた。
ククイはペンを置き、椅子の向きをゆっくりと変えた。
「『普通』か。……アローラには、決まった形のないポケモンがたくさんいる。毎日姿を変える空も、波も、どれ一つとして同じ『普通』はないんだぞ」
「……でも、……みんなが当たり前にできることが、……私には、どうしてもできないから」
サナは、シーツの上に投げ出された自分の細い腕を見つめた。
それは、重力に従うことしかできない、意志を失った枝のように見えた。
「サナ。今の君の『普通』は、こうして俺と話をして、呼吸をして、明日を待つことだ。……それ以上のことを、今日という日に求める必要はない」
ククイはベッドの端に腰掛け、サナの冷えた指先に、自分の大きな掌を重ねた。
「……進んでいる実感がなくても、君の体は、細胞の一つ一つが必死に生きる道を探している。……一歩進んで二歩下がる日があってもいい。……下がった分は、俺が後ろで受け止めてやるから」
「……はかせが、……後ろにいてくれるなら、……転んでも、いいのかな」
サナは、ククイの指を力なく、けれど確かに握り返した。
博士の掌は、いつだって驚くほど温かく、そして微かに潮の香りがする。その匂いを吸い込むと、病室の閉ざされた空気の向こうに、本物のアローラの海が広がっているような気がした。
「あぁ。何度でも転べ。……そのたびに、俺が抱き上げて、また景色を見せてやる。……君が自分の足で砂浜を走るその日まで、俺の背中は空けてあるからな」
サナは、博士の言葉を噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じた。
劇的な回復はないかもしれない。明日もまた、熱にうなされるかもしれない。
けれど、この温もりが隣にある限り、自分が登っている坂道は、決して孤独なものではないと信じられた。
『病状の停滞による「焦燥」と「諦念」の混在を確認。
医学的なアプローチ以上に、現状の肯定と、中長期的な伴走の意思表示が重要。
彼女が「治ること」を義務と感じないよう、ケアの比重を生活の質(QOL)に置く。
今夜は、彼女の不安が静まるまで、アローラの波の音を模したリズムで背中をさすり続ける。』
窓の外では、一番星が静かに瞬き始めていた。
サナは博士の手の温もりを道標に、嵐のない、穏やかな眠りの海へと漕ぎ出していった。
状態: 回復期の停滞。
症状: 全身の倦怠感、および軽度の感覚過敏。
分析: 病状の「一進一退」に対する、精神的な摩耗。
「……博士。……いつになったら、私は『普通』になれるんでしょうか」
サナの声は、動くのを止めた空気の中に、ぽつりと落とされた。
昨日は歩けたのに、今日は指を動かすのも億劫だ。少し良くなったと思えば、また次の嵐に引き戻される。そのゴールのない坂道を登り続けることに、彼女の心は悲鳴を上げ始めていた。
ククイはペンを置き、椅子の向きをゆっくりと変えた。
「『普通』か。……アローラには、決まった形のないポケモンがたくさんいる。毎日姿を変える空も、波も、どれ一つとして同じ『普通』はないんだぞ」
「……でも、……みんなが当たり前にできることが、……私には、どうしてもできないから」
サナは、シーツの上に投げ出された自分の細い腕を見つめた。
それは、重力に従うことしかできない、意志を失った枝のように見えた。
「サナ。今の君の『普通』は、こうして俺と話をして、呼吸をして、明日を待つことだ。……それ以上のことを、今日という日に求める必要はない」
ククイはベッドの端に腰掛け、サナの冷えた指先に、自分の大きな掌を重ねた。
「……進んでいる実感がなくても、君の体は、細胞の一つ一つが必死に生きる道を探している。……一歩進んで二歩下がる日があってもいい。……下がった分は、俺が後ろで受け止めてやるから」
「……はかせが、……後ろにいてくれるなら、……転んでも、いいのかな」
サナは、ククイの指を力なく、けれど確かに握り返した。
博士の掌は、いつだって驚くほど温かく、そして微かに潮の香りがする。その匂いを吸い込むと、病室の閉ざされた空気の向こうに、本物のアローラの海が広がっているような気がした。
「あぁ。何度でも転べ。……そのたびに、俺が抱き上げて、また景色を見せてやる。……君が自分の足で砂浜を走るその日まで、俺の背中は空けてあるからな」
サナは、博士の言葉を噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じた。
劇的な回復はないかもしれない。明日もまた、熱にうなされるかもしれない。
けれど、この温もりが隣にある限り、自分が登っている坂道は、決して孤独なものではないと信じられた。
『病状の停滞による「焦燥」と「諦念」の混在を確認。
医学的なアプローチ以上に、現状の肯定と、中長期的な伴走の意思表示が重要。
彼女が「治ること」を義務と感じないよう、ケアの比重を生活の質(QOL)に置く。
今夜は、彼女の不安が静まるまで、アローラの波の音を模したリズムで背中をさすり続ける。』
窓の外では、一番星が静かに瞬き始めていた。
サナは博士の手の温もりを道標に、嵐のない、穏やかな眠りの海へと漕ぎ出していった。