世界一優しい私の主治医
研究所のリビングには、明るいテレビの音が響いていた。
画面の中ではお笑い芸人が大袈裟に転んでみせ、スタジオの観客がドッと沸き立っている。
「ははっ、あいつは相変わらず体を張ってるなぁ!」
ソファの隣で、ククイが心地よさそうに声を上げて笑う。
サナもその隣で、膝に抱えたブランケットをキュッと握りしめながら、「本当だね、博士」とクスクス笑っていた。
ここ数日、サナの体調は比較的落ち着いていた。良い日と悪い日を交互に繰り返す波の中で、今日は「良い日」の側にあった。こうしてククイと一緒にテレビを見て笑える時間が、サナにとってはたまらなく愛おしかった。
けれど、笑いが一段落したふとした合間に、微かなだるさが波のように押し寄せてきた。
長時間の座り仕事に疲れたような、じんわりとした倦怠感。サナはテレビ画面を見つめたまま、ぼんやりと心の中で呟いた。
(なんか……急に身体がだるくなってきたな。いつになったら、こういうのだるさもすっきり治るのかな……)
何の疑いもない、素朴な疑問だった。
風邪を引いた子どもが「早く治って外で遊びたいな」と思うのと、まったく同じ無防備さで。
――その瞬間、冷や水でも浴びせられたかのように、脳裏の霧が不意に晴れた。
(……あ)
息が止まる。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(そうだった……。私、もう治らないんだった)
1ヶ月前、冷たい診察室で告げられた残酷な数字。「余命半年」という言葉が、忘れていた暗闇から一気に浮き上がってきた。
治る日なんて、最初から来ないのだ。
これから体調が良い日と悪い日を繰り返しながら、その波はどんどん低くなり、悪くなる一方の坂道を下っていくだけ。そして、遠くない未来に、すべてが終わる。
一瞬でも「いつ治るのかな」なんて呑気に考えてしまった自分自身の滑稽さと、突きつけられた現絶望のあまりの重さに、胸が押し潰されそうになった。
「サナ? 次のコーナーが始まるぞ、ほら――」
ククイが楽しそうに隣を振り返った、その時だった。
「……っ……、あ……っ」
サナの目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
声にならざる途切れ途切れの息とともに、涙が止まらなくなっていた。
「サナ!? どうした、どこか痛むのか!?」
一瞬で笑顔を消したククイが、テレビのリモコンを放り投げ、サナの肩を強く掴む。
「ううん……っ、痛くない、痛くないの……っ。でも……っ」
サナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を覆い、しゃくりあげながら吐き出した。
「私……忘れてた……っ。身体がだるいな、いつ治るのかなって……ふつうに考えちゃったの……っ。……治らないのに……っ! もう悪くなって終わっちゃうだけなのに……っ!」
テレビからは、相変わらず賑やかな笑い声が流れている。その朗らかな世界と、自分の未来の圧倒的な暗闇との落差に、サナは子どもに戻ったようにボロボロと声を上げて泣きじゃくった。
無防備に笑っていたからこそ、現実の鋭い刃が、あまりにも深く心に刺さってしまったのだ。
ククイは絶句した。
胸を刺されたような痛みが、彼の全身を貫く。この子は、ほんの一瞬でも痛みを忘れられた平和な時間の中でさえ、こんな悲惨な絶望に引き戻されてしまうのか。
「サナ……」
ククイは何も言わず、テレビの電源を消した。部屋から一切の騒がしさが消え、サナの痛切な泣き声だけが響く。
彼は溢れ出る涙も構わずにサナを強く、壊れ物を抱くように抱きしめた。
「ごめんな……ごめんな、サナ……」
サナの背中を力強くさすりながら、ククイは彼女の髪に顔をうずめる。
治らない現実を、消えない未来の終わりを、嘘で塗り替えることはできない。けれど、その恐怖と絶望に彼女が押し潰されそうになるたび、こうして何度でも抱きしめて、この温もりだけは本物だと伝えることしかできなかった。
サナはククイの白衣をぎゅっと掴み、彼の胸の中で、引き裂かれた心を取り戻すようにいつまでも泣き続けた。
画面の中ではお笑い芸人が大袈裟に転んでみせ、スタジオの観客がドッと沸き立っている。
「ははっ、あいつは相変わらず体を張ってるなぁ!」
ソファの隣で、ククイが心地よさそうに声を上げて笑う。
サナもその隣で、膝に抱えたブランケットをキュッと握りしめながら、「本当だね、博士」とクスクス笑っていた。
ここ数日、サナの体調は比較的落ち着いていた。良い日と悪い日を交互に繰り返す波の中で、今日は「良い日」の側にあった。こうしてククイと一緒にテレビを見て笑える時間が、サナにとってはたまらなく愛おしかった。
けれど、笑いが一段落したふとした合間に、微かなだるさが波のように押し寄せてきた。
長時間の座り仕事に疲れたような、じんわりとした倦怠感。サナはテレビ画面を見つめたまま、ぼんやりと心の中で呟いた。
(なんか……急に身体がだるくなってきたな。いつになったら、こういうのだるさもすっきり治るのかな……)
何の疑いもない、素朴な疑問だった。
風邪を引いた子どもが「早く治って外で遊びたいな」と思うのと、まったく同じ無防備さで。
――その瞬間、冷や水でも浴びせられたかのように、脳裏の霧が不意に晴れた。
(……あ)
息が止まる。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
(そうだった……。私、もう治らないんだった)
1ヶ月前、冷たい診察室で告げられた残酷な数字。「余命半年」という言葉が、忘れていた暗闇から一気に浮き上がってきた。
治る日なんて、最初から来ないのだ。
これから体調が良い日と悪い日を繰り返しながら、その波はどんどん低くなり、悪くなる一方の坂道を下っていくだけ。そして、遠くない未来に、すべてが終わる。
一瞬でも「いつ治るのかな」なんて呑気に考えてしまった自分自身の滑稽さと、突きつけられた現絶望のあまりの重さに、胸が押し潰されそうになった。
「サナ? 次のコーナーが始まるぞ、ほら――」
ククイが楽しそうに隣を振り返った、その時だった。
「……っ……、あ……っ」
サナの目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
声にならざる途切れ途切れの息とともに、涙が止まらなくなっていた。
「サナ!? どうした、どこか痛むのか!?」
一瞬で笑顔を消したククイが、テレビのリモコンを放り投げ、サナの肩を強く掴む。
「ううん……っ、痛くない、痛くないの……っ。でも……っ」
サナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を覆い、しゃくりあげながら吐き出した。
「私……忘れてた……っ。身体がだるいな、いつ治るのかなって……ふつうに考えちゃったの……っ。……治らないのに……っ! もう悪くなって終わっちゃうだけなのに……っ!」
テレビからは、相変わらず賑やかな笑い声が流れている。その朗らかな世界と、自分の未来の圧倒的な暗闇との落差に、サナは子どもに戻ったようにボロボロと声を上げて泣きじゃくった。
無防備に笑っていたからこそ、現実の鋭い刃が、あまりにも深く心に刺さってしまったのだ。
ククイは絶句した。
胸を刺されたような痛みが、彼の全身を貫く。この子は、ほんの一瞬でも痛みを忘れられた平和な時間の中でさえ、こんな悲惨な絶望に引き戻されてしまうのか。
「サナ……」
ククイは何も言わず、テレビの電源を消した。部屋から一切の騒がしさが消え、サナの痛切な泣き声だけが響く。
彼は溢れ出る涙も構わずにサナを強く、壊れ物を抱くように抱きしめた。
「ごめんな……ごめんな、サナ……」
サナの背中を力強くさすりながら、ククイは彼女の髪に顔をうずめる。
治らない現実を、消えない未来の終わりを、嘘で塗り替えることはできない。けれど、その恐怖と絶望に彼女が押し潰されそうになるたび、こうして何度でも抱きしめて、この温もりだけは本物だと伝えることしかできなかった。
サナはククイの白衣をぎゅっと掴み、彼の胸の中で、引き裂かれた心を取り戻すようにいつまでも泣き続けた。